六駅分のエトセトラ

家からオフィスまでの六駅で綴る何らかの文

働き方改革

最近、「働き方改革」が何かと話題である。

残業を減らして、趣味や余暇に時間を使おう。

仕事以外の、いろいろなものに目を向けてみよう。

そんな風潮が世の中を席巻している。

 

確かに、働きすぎは良くないと思う。

たとえば月に何百時間も残業をしたら、精神的にまいってしまうだろう。

何も考えられなくなり、特急電車の前に飛び込みたくなってしまうかもしれない。

しかし、当人がそれを望んでいる場合はどうだろうか。

 

たとえば、名門校の高校球児を考えてみる。

彼らは、早朝に起きて高校に行くと、まず朝練に励むのだろう。

そして昼休みにも練習をし、授業もそこそこに放課後練習へと向かう。

夜遅くまで練習をして、家に帰るとまた、翌日の練習のために寝る。

きっとそんな暮らしをしているのだろう。

 

彼らはいったい月に何時間野球をしているのだ。

残業時間に換算すれば、厚労省職員も卒倒するような圧倒的ブラック企業だろう。

しかし、彼らは好んで、それも無給で、それをやっている。

誰もそれをとがめはしない。

そして、そのことに誰も疑問を持たない。

 

一方で働き方改革である。

「残業は悪だ」「仕事以外に時間を使え」と人々は声高に叫ぶ。

いつから仕事は、そんなに悪者になったのだろうか。

いくら働き方改革を進めたところで、会社という組織に身を置く以上、生きている時間の中のかなりの割合を、働く時間が占める。

そんな労働を、あたかも精神をむしばむ悪者であるかのように扱う風潮は、間違っていると僕は思う。

 

もちろん、誰もが残業を山ほどするべきだと言っているわけではない。

問題なのは、残業を絶対悪と見なすような風潮である。

 

働き方改革において削減するべきなのは、「無意味な業務」「非効率な作業」であって、単に「労働時間」ではない。

働き方改革において目指すべきは、「毎日定時で帰る人もいれば、残業しまくって成果を出す人もいて、そもそも会社にほとんど来ない人までいるような状態」であって、「全員一律に労働時間を減らした状態」ではない。

 

そう思うのだ。

 

残業時間を減らしに行くことで、残業代欲しさに意味のない残業をする不届き者への対策にはなるのだろう。

残業をすることが当たり前になってしまっている風潮をまず変えに行く、という意義も多少なりともあるのだとは思う。

 

しかし、何となく、世の中の働き方改革が少し間違った方向に行っていると思わされることが少なくないのである。

 

そんな、会社員一年目のつぶやきであった。(最近、投資を勉強し始めました)

有言不実行

当ブログの更新頻度を、再度見直そうと思う。

 

現在の週二回更新から、不定期更新に変更する。

 

理由はしんどいからである。

 

有言不実行、三日坊主(半年坊主?)もいいところだが、この執筆活動を続けた先にあるものが、なかなか見えなかったというのが主な理由である。

 

文章を書くというのはなかなか難しい。

21GBの壁(越えた)

一昨日、スマホ通信制限に引っかかってしまった。

 

最近の若者にはよくある話ではあるのだが、僕の場合、結構衝撃的なニュースである。

 

なぜなら、僕が月に使える通信量は21GBだからだ。

 

月のスマホ代を1000円増やすだけで月に使える通信量が6GBから21GBにできることが判明したため、7月頃からこのプランにしたのだが、今まで通信制限に引っかかることはおろか、危ないと思ったことすらなかった。

 

そもそも、21GBを一ヶ月で使い切るには、一日に0.7GB使う必要がある。

 

通信制限のせいで、これがどのくらいの通信量なのかをスマホで調べて具体例で示すことはできないのだが、多分動画でも結構な時間観ることができる通信量だろう。

 

しかし、今回は月が終わる5日前にして通信制限に引っかかってしまったのだ。まさに個人的ニュースである。

 

かと言って今月僕の性欲が爆発して高画質無修正エロ動画を死ぬほど視聴してしまったわけでは毛頭なく、これには明確な理由がある。(無修正かどうかは通信量には関係なかった)

 

パソコンが直ったのだ。大学に入った時に買ったMacBookが、調子が悪すぎてウンともスンとも言わなかったあのMacBookが、ジーニアスバーに持って行ったらすんなり直ったのである。未だに動作が重いのは重いが、一応まともに操作はできる。

 

そして、僕はWi-Fiを契約していない。パソコンがなく、スマホの通信量が山ほどある状態でWi-Fiを契約する理由が特になかったからだ。

 

そんな状態の僕が取る行動と言ったら、やはりテザリングであった。スマホを通じて久々のネットサーフィンに興じた僕は、通信制限という罰を甘んじて受け入れるしかなかったのである。

 

さすがに反省し、Wi-Fiの契約をすることを考えている。今はキャンペーンページにたどり着くことすら難しいので、12月1日に申し込むこととしよう。

勤労さん、ありがとう

今日は勤労感謝の日である。祝日だ。国民の祝日。圧倒的おやすみである。

 

しかし考えてみるとこの「勤労感謝の日」、なかなかよくわからないネーミングだ。「勤労感謝」というのは一般的な四字熟語なのだろうか。本来今日感謝するべき対象は「勤労している人」であって「勤労」ではないのだが、こう書かれるとうっかり「勤労」にありがとうを言ってしまいそうになる。と言うか、僕も勤労しているので紛れもなく感謝対象である。僕、ありがとう。お金を稼いでくれてありがとう。おつかれ。コーラ飲む?

 

ということで、今日から出張なので今週のエトセトラは今日で終わりです。日々感謝。

オカネノツカイカタ

お金は使うためにある。

 

当たり前だが、非常に重要なことだ。

 

この部分だけ聞くと、浪費癖に打ち勝つことができない借金にまみれたダメ人間の戯言にも聞こえるが、決してそういうことではない。

 

お金は使うためにあるのだ。

 

なぜなら、お金というのは価値の象徴であり、交換を媒介するだけでそれ自体は何の機能も持たないものだからである。

 

わかりにくい表現になってしまった。

 

こういうことを言うとまた「東大はすぐ小難しいことを言う」「ヒーッ、ヒーッ」とさんまにバカにされてしまうから、もう少し平易な表現を心がけると、お金は最終的に何かに使うために持っておくものであって、何かと交換しない限り、何の役にも立たないただの紙切れでしかないということだ。

 

お金を貯めることはあくまでも手段であって目的にはなり得ない。お金を貯めた先にあるのは、イカしたバイクであり、ブチ上がる海外旅行であり、子供が行きたがっている私立学校であり、悠々自適な老後生活である。

 

しかし、だ。

 

僕は今、中途半端にお金を貯めている。新入社員として無理のないレベルで、ちまちまコツコツお金を貯めている。

 

その理由は、あくまで「何かに使うかも知れないから」であって、「これを買いたい」「これに使いたい」ではない。

 

一方で周囲に目を向けてみれば、意外とカツカツの生活を送っている者は多い。

 

「預金2万円切った」「カードでなんとかしてる」そういったスタイルが自分のお金の使い方より優れているとは言わないが、今はお金を貯めるより若いうちにできることをしておくべきだという理論には納得できる。

 

そろそろ、新入社員なりに冬のボーナスも入る時期だ。

 

とりあえず、結婚したら行きにくくなるであろう、海外旅行にでも行ってみようか。タイとかいいかも知れない。

 

少し前の発言を訂正しよう。お金は、「使うべきところで使う」ためにある。

 

そして僕は帰国したら、またちまちまとお金を貯め始めるだろう。

 

人間とはそういうものである。

店内全面禁煙

「たばこ吸っていい?」という質問が嫌いだ。

 

あの質問をする人間というのは、往々にして「当然承諾してくれるだろう」と考えており、「いいよ」以外の回答など存在しないかのように振舞ってくるからだ。奴らは、必ずたばことライターを用意しながら聞いてくる。こちらに選択肢を与えないように。

 

あの不快な悪臭を放つ煙を他人に吹きかけることが、あたかも生まれ持って与えられた当然の権利であるかのように振る舞うのだ、奴らは。なぜ貴様の快楽のために悪臭を我慢せねばならんのだ。今すぐその臭い巻紙を捨てろ。IQOSでも臭いもんは臭い。全部捨てろ。

 

まあ、聞かないよりはいい。何も聞かずに突然吸い始めるよりマシなのは確かだ。

 

しかし、ベストは吸わないことである。あるいは隔離された喫煙所で吸うことだ。

 

そもそもたばこを吸うことの目的は単なる快楽の追求であり、気分が良くなるから、やめられないから吸っているものだ。吸っていることを人に自慢できるようなものではまるでないし、むしろ恥ずべきことである。

 

現在の日本の法律がそうなっているから、覚せい剤中毒は警察に捕まるが、ニコチン中毒は捕まらない。それだけのことである。

 

2020年の東京五輪に向けて、全ての飲食店が店内全面禁煙にしなければならないらしい。

 

楽しみで仕方ない。

あなたの食卓になりたい🎵

牛丼というのは、因果な食べ物である。

 

ひとたび街に出れば、あっちに吉野家、そっちに松屋、振り向けばすき家。あちこちに牛丼屋が点在している。(なか卯のことも忘れてはいけない)

 

街中に点在する牛丼屋からもわかるように、牛丼という食べ物は日本人にとってごく日常的な食べ物であり、ハレとケで言えば圧倒的にケであり、毎日でも紅しょうがをたっぷり載せてワシワシ食べられるシロモノなのだ。

 

そのため、価格は安い。大変に安い。あれ、1杯380円とかなのだ。ちょっと前は280円だった。圧倒的に安い。うまい棒ですら28本しか買えないし、なんなら最近は11円のところが多いから25本しか買えない。うまい棒25本などと言ったら、ハロウィンに訪問してきた子どもにあげようものなら、最近の目が肥えたガキどもは仮装を脱いでサッサとおいとまするだろう。

 

牛丼は安い食べ物である。

 

しかし、ちょっと冷静に考えてみると、牛肉というのは一般的に高いものだ。スーパーの精肉売り場に行けば、鶏肉、豚肉より牛丼の方が高いという事実を、10円安い卵パックのために5km先のスーパーに赴く目の肥えた主婦たちでさえ、至極当たり前のこととして受け止めているし、安い焼肉食べ放題に行けば、豚肉だけのコースが2500円なのに、牛肉も食べられるコースが3500円であるという事実に、牛のような胃袋を持った体育会系の学生たちは、一切何の疑問も抱いていない。そして奴らは豚肉を食らう。豚肉もうまい。うまければよいのだ。

 

そう、牛丼というのは、「高くて当然」の牛肉という食材をたっぷり使用した、「安くないとおかしい」料理なのである。

 

矛盾である。圧倒的矛盾。小学生でも鼻で笑うレベルの矛盾だ。

 

そりゃ、大手牛丼チェーンはライバル社の顔色を疑って値上げのチャンスを窺うだろう。だって、おかしいもん。一杯380円て。安すぎるもん。ワンオペしないと儲からないよ。そりゃ強盗も来るよ。

 

牛丼に限らず、世の中には「安くて当然」だと思われているせいで価格を上げられないものやサービスがわんさかある。その一方で、「高くて当然」と思われているおかげでえらい高く売ってもバカスカ売れるものもある。当然利益率にも雲泥の差があるわけだが、それぞれに違ったビジネスモデルがあり、どちらがいいとは一概には言えない。

 

ただ、安すぎるというのは、一時的には消費者は喜ぶが、長い目で見ればいいことではない。「いい」というのは誰から見た話なのかにもよってくるだろうと思うけども。

 

そして、僕は昨日も牛丼を食べた。牛丼はうまい。

 

ひとまず、うまいのでオーケーだ。