六駅分のエトセトラ

家からオフィスまでの六駅で綴る何らかの文

立ち食いそば道

立ち食いそばには、わびさびの趣があると思う。

 

かの有名な茶人、千利休は、茶の湯を楽しむ部屋である茶室をあえて小さく作ることで、武士達の権力の象徴である大きな刀を、茶室の中に持ち込めないようにした。そのことにより、あらゆる肩書きをそぎ落とした、純然たる一人の人間として、茶の湯と向き合うことを仕向けたのである。

 

立ち食いそばも同じである。属す会社の大小や、年次の高低、収入の多寡は立ち食いそば屋においては意味のないものである。全てのおっさんが、狭い店内で皆平等に、あの本当にそば粉が練りこまれているのか甚だ怪しい、妙に白っぽい安いそばをすする。

 

あの資料の納期だとか、あのプレゼンの準備だとか、そんなものよりも、今は目の前のそばに七味を何シェイクかけるかという問題の方がよほど大事なのだ。

 

仕事に関わるあれやこれやから一時的に解放されて、立ったままという決してお行儀が良いとは言い難い状態で、全てのおっさんが等しくそばをすするのである。

 

純然たる一人の人間として、そばに向き合う。その根底に流れるのは、まさに茶道の精神ではなかったか。

 

また、立ち食いそばは、その店構えも実に趣深い。

 

繁華街のターミナル駅、電車の通過する音が喧しいガード下に、埋もれるように佇む立ち食いそば。

 

田舎のだだっ広い駅のホームに、ぽつんと置いて行かれたように設えられた、5人もそばをすすろうものなら肩がぶつかり合ってしまいそうな立ち食いそば。

 

オフィスビルが林立する都会の街、再開発が進む近代的な街並みにそっと昭和レトロな雰囲気を添える、地上げ反対系の立ち食いそば。

 

そこにはまさにわびさびの趣を見出すことができるだろう。

 

化学調味料を前面に押し出した、安いだしを飲み干して、下膳口に盆を置く時、今度からこう言うことにしよう。「結構なお点前でした」と。

 

※なぜか白紙で公開されてしまっていたので投稿し直しました。なぜ。

若親や子供撫でずにスマホ撫で

子どもの泣き声というのは、聞いていて快いものではない。単純にうるさいというだけではない、表現しがたい不快さを持った音だと思う。

 

そもそも子どもの泣くという行為は、周りの大人に助けを求めるということだ。

 そう考えると、この気にせずにはいられない不快な音も、非常によくできたものだと感心すらしてしまう。

 

何にせよ、僕は子どもの泣き声が好きではない。

 

こういうことを言うと、ああ、子どもが嫌いなんだね、そういうことを言うとモテないよ、だから「結婚できなさそうだね」って言われるんだよ、などと批判されそうだが、決して子どもが嫌いなわけではないのだ。

 

先述の通り、子どもの泣き声は不快に感じられてしかるべきものである。そして世の中にこれだけ多くの人間がいる以上、生まれて間もない子どもがいるのは当然のことだ。

 

満員電車や飲食店の隣の席で、子どもが突然金切り声を上げることがあるのは当たり前のことなのだ。

 

雨が降るのと同じようなものである。喜ぶ人は少ないが、当然のことだと諦めて、対策を取る。

 

雨が降ったら、傘をさすだろう。

 

僕が批判したいのは、傘をささない、すなわち対策を取らない人間である。自分の子どもが泣いたら、なだめすかし、あやすのが親というものではないのか。スマホの画面を撫でるより、我が子の頭を撫でるべきではないのか。自分の子どもが、これほど力いっぱい助けを求めているというのに。

 

そういう親を見ると、僕は泣き声の不快さを忘れるほど、言いようもなく不快になるのである。

 

ただ、何事もやってみないとわからないもので、もしかすると子育ては僕が想像する以上に苦しく辛いものであり、いちいち子どもに構っていると精神をやられてしまうと思って、自己防衛として無視しているのかも知れないとも思う。

 

子どもを放っておいてパズドラに興じるのは、彼ら、彼女らなりのSOSなのだろうか。

 

答えは、子どもを持たないとわからない。

 

そのためには、まずは彼女を作らなければいけない。

 

絶賛募集中です。

男女男男女男女

男と女って、違う生き物だと思うんですよ。僕は。

 

勘違いしないでほしいのは、「違う生き物」というのは「男は下半身で生きてる」であるとか、「女は空間把握能力が低い」とかそういうことを言いたいわけではないということです。

 

僕が言いたいのは、もっと根本的なところです。

 

まず、男って力が強いじゃないですか。

 

そりゃ、万年帰宅部銀縁眼鏡みたいな
男も中にはいますし、吉田沙保里もいますよ。世の中には。でもそういうのは例外で、一般的には、あくまで大多数は、という問題ですが、男というのは女より力が強いわけです。

 

あと、女の人って子どもができるじゃないですか。おなかに。男はできないわけですよ。これは全くもってシンプルな、生物学的な違いです。

 

(ところでそもそも男と女を二分法的にバッサリと区別すること自体あまり好ましくないのですが、便宜上ここではそうせざるを得ないのでそうしています)

 

で、僕が言いたいのは、「男と女って違う生き物だよね」ということ。そして、違いを認めた上で男女の平等を考えなきゃいけないよね、ということです。

 

何を当然のことを、と思われるかも知れないんですが、もしそこを履き違えると、例えば引っ越しバイトの採用で男だけ取ると違法だとか、トイレが男女別なのはおかしいとか、男も産休を取れるようにしようとか、そういう方向に話が進みかねないわけですよ。

 

これは極端な例ですけども、男女には(必ずしも明確ではないとは言え)明らかな身体的差異があって、その違いを尊重すべき、という考え方は常に持っていないといけないなあと思います。

 

もちろん、マッチョでもお茶は淹れられるし、赤ちゃんをあやすこともできるから、男が育休を取れないとおかしい。一方で女の人が出産する時は、大きいお腹を抱えて現状一般的な「仕事」をし続けることは不可能だから、一旦職場を離れても復帰できる仕組みづくりとか、テレワークで完結する働き方が求められる。力が要る仕事は、高いところにあるものを(男女に関わらず)背が高い人が取るのと同じように、力が強い、一般的には男の人がした方が理にかなっているわけです。

 

男女共同参画社会基本法が施行されたのは1999年。今年で18年になるらしいです。しかし、まだまだ共同参画社会には届いていないというのが現状でしょう。

 

男女の問題に関わらず、様々な面での多様性が求められる現代、我々は「平等」の意味を間違えることのないよう留意する必要があるのかも知れません。

TOMYOって書くとTOKYOみたいだね

豆苗という野菜がある。中華屋でよくニンニクと一緒に炒められている青臭いあの野菜だ。あれを今、育てている。

 

豆苗は一度食べた後に根を水に浸けておくと、また伸びてきて、再び食べることができるのだ。

 

そして僕は、ある重大なことに気付いた。

 

『これは、"永久機関"ではないか?』

 

「n回目に食べた後に根を水に浸けておくと、また伸びてきて、n+1回目にも食べることができる」という事象が任意の自然数nにおいて成り立つことは、実質的に既に証明されていると言っても過言ではない。

 

n=1において成り立つことを実証してしまった今、この豆苗は完全に"永久機関"である。

 

先人たちがあれほど苦労して発明しようとして、棒の先に鉄の玉とかくっつけたりしてなんか訳のわかんないことやってたあの"永久機関"を。

 

最終的に不可能だと結論付けた、あの"永久機関"を、スーパーの野菜売り場で割と控えめに陳列されている、長めの雑草みたいな野菜がいとも簡単に達成してしまった。あっけなさすぎてダ・ヴィンチあたりがキレないか不安である。

 

では、改めて説明しよう。

 

豆苗を買ってくる→食べる→育てる→食べる→育てる→食べる→育てる→食べる……という無限ループにうまく落とし込むことができれば、永遠に豆苗を食べ続けることができる。

 

これが豆苗永久機関である。

 

豆苗永久機関が実用化されれば、人口爆発による世界的な食糧不足が解決されるのはもちろん、豆苗で走る自動車によってエネルギー問題も解決するし、みんな幸せになるので世界中で起こる紛争とか人権問題とかも割と解決するだろう。

 

あと、炒め物に使うのでニンニクが売れると思う。

 

この素晴らしいアイデア、誰かに横取りされたらたまったものではないので、早めに公的機関とか行った方がいいのだろうか。

 

とりあえず、今週末区役所とかに行こうと思う。

なぜ「なぜそうなっているのか」を考えないのか

みんな、もっと「なぜそうなっているのか」を理解した方がいいと思う。

 

そのことを最も思わされるのが、言葉の間違いだ。世の中の人、結構言葉を間違える。

 

例えば「意外」という言葉だ。この言葉、「以外」という言葉の同音異義語なわけだが、変換間違いが非常に多い。

「意外」を「以外」と変換する人が各所で散見される。間違いではなくミスの場合もあるのだろうが、明らかに故意に変換している人も少なくない。

 

そこで「なぜそうなっているのか」の理解である。と言ってもそれほど複雑な話ではない。単に言葉の意味を考えればいいというだけの話だ。

 

つまり、「意外」とは「意の外」、すなわち「思ってもいなかった」ということを表している。一方で「以外」は、「〜を以って外」であって、「ある境界線よりも外側」ということを表しているわけである。なぜその漢字が使われているのかという仕組みを考えれば、自ずと変換間違いをすることもなくなるだろう。

 

他にも、「確率」と「確立」にも同じような傾向が見られる。それぞれなぜ「率」と「立」という漢字が含まれているのかを考えれば、間違えることはないはずなのだ。

 

変換間違いではないが「永遠と」なんかもそうだし、「せざる負えない」に至ってはお前は助詞という概念を小学校かどこかに置いてきたのかと問いただしたくなる。

 

さて、ひとまず言葉を例に出してみたが、「なぜそうなっているのか」を考えるという姿勢はあらゆる場面で役に立つ。なぜ牛丼は他の外食に比べて圧倒的に安いのか。なぜ夏は暑いのか。なぜ地下鉄は時間通りに来るのか。


世の中の様々な物事を「当たり前」として受け入れるのではなく、「なぜそうなっているのか」を考えると、世の中の見え方が変わってくる。

 

そんなの疲れるだけじゃん、と思う人は、まずはなぜ僕がこんなことをわざわざ長々と書いているのかを考えてみてほしい。(暇だからです)

ところでワイシャツにスラックスの格好は"スーツ"とは言えないのではないか

暑い。非常に暑い。ふとした瞬間にアイスクリームが食べたくなる今日この頃、季節はすっかり夏である。

 

何を隠そう、僕は暑がりだ。何の因果か無駄に活発な汗腺を生まれ持ってしまった僕は、ちょっと蒸し暑いと瞬く間に汗ダーラダラである。一番好きな季節は夏だが(テンションが上がるから)一番嫌いな季節も夏なのだ(暑いから)。

 

さて、ここで自分が着ている服に目をやると、そんな暑がりにはあまりに酷な格好である。ワイシャツにスラックスという組み合わせは、ジャケットにネクタイを締めて外回りをする営業マンには鼻で笑われそうだが、僕にとってはあまりに辛い、苦行の出で立ちだ。

 

ワイシャツの下には下着を着て、シャツはもちろんスラックスにインだ。体から発生したホットなエアーがボディーから全くシーユーアゲインしないファッキンシステムである。クレイジーホット以外の何者でもナッシングではないか。

 

なぜこんな辛い思いをしなければならないかと言えば、ビジネスの場に半袖短パンはふさわしくないとする文化があるからである。つまり、当然のことながらみんなスーツを着たくて着ているわけではないはずだ。

 

つまり、みんながみんな相手が不快に思わないように気を使って着ているのである。本当はみんな半袖短パンがいいはずだ。みんなも本当は、学生の頃に作った文化祭のクラスTシャツとか、サークルのポロシャツとかに、下はパンツで仕事したいはずである。楽だし。

 

しかし残念ながら現状の我々は、背中に無理やりつけたけど全然浸透していないあだ名がクラス全員分ズラリと羅列されたTシャツを着て仕事をするわけには行かない。「そういうものだから」である。

 

物事に対し、思考停止して「そういうものだから」と鵜呑みにする行為は嫌いだが、これに関してはとりあえずどうしようもないだろう。

 

自分一人とか、会社一つの問題ではなく、社会全体の文化の問題だからだ。僕一人でどうにかなるものではないし、今のところこの案件に関しては大胆な行動に出るほどの情熱はない。

 

今の僕がすることは、アマゾンでシャツクールをポチり、今年の夏が少しでも過ごしやすくなることを神に祈るくらいのものである。マジで頼むよ、お天道様。

週一は会いたい

今日は七夕だ。ひな祭りや節分あたりと並ぶ、日本のまあまあ大きな季節イベントの一つである。色とりどりに飾られた笹が街中に並び、人々は揃って願い事を書いた短冊を吊るす。

 

かく言う僕も銀座駅にあった笹に短冊を吊るした。あれで本当に願い事が叶うと思っている人はそういない気がするが、意志を形にして表すことに意味があるのかも知れない。

 

ところで七夕と言えば織姫と彦星である。天の川に阻まれ、年に一度しか会うことができない悲しいカップルだ。昔の人はベガとアルタイルなどというただちょっと明るいだけの星を見て、よくそんなラブストーリーを思いつくものだなと感心する。

 

で、このカップル、終わってると思うのだ。

 

だって年に一度である。一ヶ月に一度でも彼女の方がツイッターに「求められないのって辛いね😂😂」とか「私だけで悩んでるの馬鹿みたい」とか投稿しそうなものなのに、そのさらに12倍である。

 

しかも、北海道と沖縄の遠距離恋愛とかならいざ知らず、川を挟んで隣の村に住んでいるのだ、奴らは。会おうと思えばちょろっと河川敷に行けば会えるだろ。河川敷に行け。河川敷はいいぞ。トランペットとか吹いてる奴いる。

 

奴らは、要は形式的に付き合っているだけなのだ。見栄とか親への言い訳とか色んな事情はあるのだろうが、そこに愛はないのだろう。100%お互い浮気しているし、そのことをお互いわかっているに違いない。そういう冷めた関係なのだ。

 

そうでなければ一年も耐えられるわけないだろう。そもそも一年に一度しか会わない男女のことカップルって言わなくない?それ知り合いじゃない?割と仲良い方の知り合いとかじゃない?年一で帰省してくるからタイミング合わせて軽く飲む、大学のサークルで四番目くらいに仲良かったやつとかじゃない?

 

しかしそれを悪く言うことはできない。人それぞれだからだ。付き合い方も人それぞれ。とかく男女の仲は難しい。

 

まあでもお互い幸せならオールオッケー。みんな幸せが一番。