六駅分のエトセトラ

家からオフィスまでの六駅で綴る何らかの文

これは飴です、高速で舐めてるから煙が出てるんです

たばこが嫌いだ。

 

煙いし、臭いからである。

 

今までの人生で主に属していたコミュニティでは、常に喫煙者はマイノリティであったため、たばこを吸おうという気にはあまりならなかったし(地元の同期は今でこそ吸いまくりだが、さすがに中学の時はマイノリティだった)、そもそも僕はたばことパチンコは一生やらないと決めているので、これから吸う予定もない。

 

だいたい、たばこを吸うことのメリットが少なすぎると思うのだ。

 

カッコいいというのはまあ、わからなくはない。確かに渋いオッサンがたばこを吸うのはカッコいい。渋いオッサンじゃない喫煙者はひとまず置いておいて、それは認めよう。

 

しかし、デメリットである。まず、煙い。煙とは基本的に不快なものだろう。バーベキューに行った時に積極的に風下にポジションを取り、「そうそう、この備長炭の煙がたまらないんだよな〜〜〜!スーハースーハー!!」などという酔狂な人間はいない。煙の存在がそもそも不快。それがまず一つ目だ。

 

そして、臭い。たばこは臭すぎる。簡単に洗える服ならまだしも、スーツなんかにたばこの臭いが付くとマジだるいのだ。あとそこのお前、こっそり吸ってきたつもりかも知んないけど臭いで即バレだからな。即バレだ。アイコス使ってもそこそこ臭い。でも、アイコスのメカ感は男心をくすぐる。あの精巧な感じ。ヒュー。これが二つ目。

 

最後に、高い。一箱500円とかする。下手したらランチ一食分である。あんなちっちゃい箱に入ったロール紙みたいなのと、牛丼おしんこセットだったら、どう考えても牛丼おしんこセットを選ぶだろう。あ、やっぱりキムチにしてもらっていいですか?

 

というわけで、たばこを吸うことにはメリットが少なすぎるのであった。費用対効果で考えたらゴミである。こんな投資先は早めに見限らないといけないだろう。利益に結びつかなすぎて株主もブチギレである。

 

とは言うものの、僕は別に喫煙者を忌み嫌っているわけではない。近親者に喫煙者がいるのはあまり嬉しくはないのでやんわりと禁煙を勧めるかも知れないが、友人や赤の他人が吸っている分には全く問題ない。

 

たばこの臭いが付くのも喫煙席に座った自分が悪いし、むしろ税金払ってくれてあざーす!!喫煙者さんあざーす!!チャリンチャリーン!!(たばこ税が納税される音)といったスタンスである。

 

ここ数年、たばこもとい喫煙者はいたく冷遇されている。カフェに行けば喫煙席はガラス張りの水族館みたいな感じだし、そもそも喫煙席がない店も増えてきた。

 

歩きタバコからは容赦無く罰金、街中の喫煙所はオッサン達でパンパンのパンパースである。

 

たまに見かける、電話ボックスみたいな小さな喫煙所で、肩を寄せ合ってたばこを吸う喫煙者を見ると、そこまでしてたばこを吸いたいかとなんだか切ない気分にすらなる。その電話ボックスの外には、もっともっと、ずっと広い世界が広がっているんだよ。

 

今、日本には2000万人ほどの喫煙者がいるそうだ。そのうち1500万人が男性と言うから、日本人の成人男性の三人に一人はたばこを吸っている計算になる。自分としては、感覚よりもかなり多い。

 

東京都は、2020年までに都内の全飲食店を完全禁煙化する方針だという。喫煙者への風当たりは、ますます強くなっている。僕はその強い風を、なんとも冷めた、と言うより生ぬるい目で見つめている。

 

まあ、みんなココアシガレットにしたらいいんじゃないかな。

言葉の変化は避けれない

ら抜き言葉は、「見れる」と「来れる」だけ許した。

 

当方、言葉に少々うるさい人間である。「的を得る」「せざる負えない」といった細かい間違いを見ると、言いようのないイライラを感じてしまうタイプの人間だ。

 

ら抜き言葉はその筆頭である。日本語の乱れとして近年よく取り上げられており、相当数の人が使っている実感がある。

 

そのら抜き言葉を、僕は「見れる」と「来れる」だけ、今のところ認めた、という話である。(僕が認めたところで何にもならないのだが)

 

そもそも、言葉というのは時代に応じて姿を変えるものである。「独壇場」はもともと「どくせんじょう」だったし、「新しい」は考えてみれば本来「新たしい」だ。「確信犯」はダメだとわかってやることではなく、ダメじゃないと確信してすることだった。

 

(この三つの例は意味が変わった時代がかなり違うので並列するのは適切でないかも知れないが)そのような完全に市民権を得た言葉に対して、「それは間違いで、元々はうんぬん…」と指摘するのはあまりにも野暮といったものだろう。

 

だから僕はら抜き言葉に関しても、心の中で「ああ、あの人はら抜き言葉を使っているなあ」と思うだけで、指摘することはしない。(なお、基本的に間違いは正してあげた方がその人のためだと思っているので、指摘できるような状況と相手との関係であれば、積極的に正して行こうというのが僕の姿勢である)

 

それに、ら抜き言葉は便利だ。助動詞「る・られる」は、可能だけではなく受身や尊敬の意味を持っている。「食べられる」という言葉が、
「(好き嫌いを克服したのでピーマンを)食べられる」のか、
「(シマウマがライオンに)食べられる」のか、
「(部長がお寿司を)食べられる」のか(これは普通召し上がるだ、例が悪かった)のか、
判断がつきにくいのである。

 

一方、ら抜き言葉は便利だ。可能しか表さないので、らを抜きさえすれば意味は一意に定まる。なるほどこれは部長がお寿司を召し上がる話ではなくて、たかしくんが好き嫌いを克服した話か、と一瞬で判別がつくのだ。これは地味に便利である。

 

さて、最初にも述べたように僕は未だに「見れる」と「来れる」しか認めていない。この二つだけ許している経緯は、この利便性にもやや関係があり、「見られる」と「来られる」は響きがあまり可能に聞こえないということに起因している。

 

とは言え、僕がいくら許さなかったところでら抜き普通は将来きっと市民権を得るし、何か意味があるわけではない。

 

ただ、ここでちょっと意見を表明することで、もしかしたら誰かから同意を得れるかもなと思った次第である。

説明責任を果たせ

「理解する」ということは、「人に説明できるようになる」ということである。

 

学校の授業、朝のニュース、料理のレシピ、何でもそうだ。

 

話を一通り聞いて、何となくわかった気になっていても、じゃあ結局それどういうことなの?と説明を求められると、しどろもどろになってしまう場合が多い。

 

逆に言えば、説明できるようにしておくと、理解が非常に早く進む。

 

たとえば、朝刊の一面を五分間読んだとして、ただなんとなく読むのと、そこに掲載されていたニュースをまとめて後で誰かに説明するつもりで読むのとでは、頭への入り方が全く違う。

 

一度やってみるとよくわかるので、ぜひ試してみてほしい。

 

さて、なんとなく理解した気になっているだけの状態と、人に説明できるようになっている状態の最も大きな違いは、主体性である。

 

主体性を持って物事に取り組むことは、理解への近道なのだ。

 

ところで、丸覚えという方法もある。これは、「人に説明する」という点では条件を満たしている。

 

しかし、「理解している」とは必ずしも言いがたい。丸覚えするためには何度も何度も読む必要があるので、結果的に理解できていることもあるかも知れないが、主体性なくただ内容を丸覚えするというやり方は、定着しにくく、短期的な記憶に終わりやすい。

 

自分の知識、経験として身につくようなインプットをするためには、やはり人に説明できるように「理解する」ことが大切である。

 

以上が、僕の持論だ。

 

ということで、結局今日の記事はどういう内容だったのだろうか。

 

説明してみてほしい。

レム睡眠って結局どっちだっけ

このブログには致命的な欠陥があると思う。

 

朝は眠いということだ。

 

皆さんは果たしてご存知だろうか。朝は、超眠いということを。

 

そう、朝、超眠いのである。

 

そもそもこのしょうもないエッセイは、家の最寄駅から会社の最寄駅まで6駅、およそ15分の道のりで何らかのしょうもない文を書くというコンセプトで始まったしょうもないサムシングであるからして、朝書かなければならないのは当然と言えば当然なのであるが、しかし眠いものは眠い。

 

そもそも、睡眠時間が足りないのだ。現状おおよそ5時間半から7時間くらい寝ているが、ほんとうは8時間は寝たい。欲を言えば10時間くらい寝たいと思っている。

 

僕は昔から基本的に常に眠い人間で、まあそのくせ朝練がある部活に入っていたりもしたのだが、高校の時なんかは隣の人に寝顔を見られないよう机の端に教科書を山のように積んで、タオルを敷いて教科書側を見るように突っ伏して寝ていた。

 

今思えば失礼な話だが、先生によって眠くなる話し方の人、ならない話し方の人、眠くても頑張って聞いた方がいいと思う内容の授業をする人、そうでもない人がいて、世界史なんかはそれはそれは気持ちよく爆睡させてもらっていたものである。

 

そうして授業中寝まくったせいで、化学の酸化数の話で完全に意味がわからなくなった時の焦りは印象的だった。(後で教科書を必死に読んで頑張ってキャッチアップした)

 

言うまでもないが、大学の授業も鬼のように寝ていた。でも出席はするのだ。寝るくらいなら家で寝ろよ、という意見もあるかも知れないが、たとえ寝たとしてもとにかく出席しておくことでなんとなく授業の流れがわかるというのが僕の理論であった。

 

忙しい研究の合間を縫って授業の準備をして下さっている教授の皆さんにする言い訳は特にない。すみません。

 

さて、僕はいままで二十数年生きてきた中で、二つのモットーを大事にしてきた。「やる気が出ない時はやらない」と、「眠い時は寝る」ということである。これは人間をやる上で非常に重要なことだと僕は思っている。

 

しかし、社会人になった今、このモットーは二つとも守れずにいる。特に、後者が全く守れないのだ。僕は基本的に常にやる気に満ち溢れている人間なので、多少やる気が出なかったところでちょっと気合を入れればすぐに復活するのだが、問題は眠気である。

 

眠気はちょっと気合を入れても飛んでいかないのだ。これは困った問題である。

 

しかし考えてみれば、たとえば大学受験の勉強に対するやる気なんかは、決して最初からあったわけではなく、文化祭が終わった九月中頃、このままだと絶対に落ちるという危機感から、半ば強制的に発生したエネルギーだった。

 

そう考えてみると眠気の方も、強制的に取り去ることは可能なのかも知れない。社会人生活が僕にとってまだそこまでの危機感を持っていないということか。

 

だいぶ話がずれてしまった。今日は何の話だったかと言えば、「朝は眠い」ということだったはずだ。

 

「朝は眠い」。しかし、圧倒的な危機感を持っていれば眠気など吹き飛ぶ。それが今日の結論と言えるだろう。

 

大事な会議の日とかね。まあ、当たり前のことか。

 

とりあえずコーヒーでも飲もうか。

嫌に染み付く蝉の声

蝉が鳴き始めた。

 

蝉の声は、夏の風物詩だ。今年もいよいよ、本格的に夏が来た。

 

ところで、蝉はなぜ鳴くのか。

 

これは有名な話だが、鳴くのはオスだけで、彼らはメスを呼ぶためにミンミンミンミン鳴いている。

 

ミンミンミンミン鳴くのはつまりは交尾がしたいわけで、言うなれば「セックスがしたい!セックスがしたい!」と叫んでいるわけである。

 

何ともアレな話である。

 

うだるような真夏の昼下がりにジージージージー耳障りなあのアブラゼミの大合唱も、捕まえると体をくねらせてミンミンミンミンやかましく騒ぐミンミンゼミの叫びも、まだ涼しい朝方の時間に山の方から遠くにカナカナ聞こえるヒグラシの切ない声も、全部「セックスがしたい!」なのである。

 

蝉、すごいセックスしたがる。

 

まあ、蝉の交尾は純粋に子孫を残すために行う神聖な儀式のようなものであるから、快楽のために避妊までして及ぶ人間の行為と同列に扱うのは間違ってはいるのだが、日本の夏を代表する風物詩が生殖行為に結び付いているのは紛れもない事実である。

 

言ってしまえば、心持ちと過程が異なるだけで、ハチ公前でナンパをする性欲丸出しのクソ大学生と本質的には一緒なのだ。

 

そう思うと、風流な蝉の声も、「ねえ、スタバの新作飲みたくない?」「すみません、109ってどっちでしたっけ?あ、あっちか(笑)」などとあの手この手でホテルに連れ込もうとする、害悪クソチャラ大学生の売り文句に聞こえてくる。

 

楽しい夏になりそうだ。

KAISHAIN

自然物を除けば、世の中のどんな物にも、それを作った会社があって、その会社に勤めている人がいるのだということに最近気付いた。

 

これはすごいことではないか。

 

街を走るクルマや、スーパーに売っているカップラーメンなんかはもちろん、電車のつり革とか、水道の蛇口とか、目に見えないけど飛んでる電波とか、パンの袋を止めるアレとか、全部それを作る会社があって、その会社に勤めている人がいて、その商品を担当してる社員がいて、毎日毎日その商品について会議したり、プレゼンしたり、ランチ行ったり、エクセルいじったり、セルの結合でイラついたり、仕事が終わったらスーパーに寄って帰ってちょっとしたお惣菜で一杯やってたりするのだ。

 

これはすごいことだろう。すごいことじゃない?

 

日本にはゴマンと会社がある。実際、五万社くらいだと、どこかで耳にした。

 

世の中というのは、会社が作っている。当たり前のことだが、すごいことだ。

 

ついこの間から、僕も世の中を作り始めたわけだ。(学生が世の中を作っていないとは言わないが)

 

さて、どんな世の中を作ろうか。

等幅図形

マンホールってあるじゃないですか。

 

あれ、なんで丸いか知ってます?

 

落ちないかららしいんですよ。

 

丸いと、どの向きになっても直径が等しいから、下に落ちることがないと。

 

中で作業している人の頭上にドーン、みたいなことが未然に防げると。

 

それはまあわかるんですよ。

 

理屈が通ってる。

 

ただちょっと冷静になって考えてくれよと言いたい。

 

四角いやつあるじゃねーかと。

 

マンホール、四角いやつバリバリあるじゃねーかと。

 

僕は言いたいわけですよ。

 

四角いマンホール、斜めにしたらバリバリ落ちるじゃないですか。

 

下で作業してるオッサンの頭にドーンですわ。

 

オッサン、頭ドーンですよ。

 

家族とか。子供とかいるのに。

 

かわいそうに。

 

それとも何ですか。

 

四角いマンホールの下には、驚異的な石頭を持った人だけが入るみたいな取り決めでもあるんですか。

 

そこら辺、はっきりしてほしいですね。

 

あも、ここまで書いた時点で「四角いマンホールが使われている配管は内部に人が入って作業をすることのない種類のものなのではないか」という考えに至った件については黙っといてもらえますか。