レベッカ
サラリーマンというのは難儀な人種である。目上の人におべっかを使うためにクソしょうもないことをしなければいけない場合がある。
幸いうちの会社はそのようなクソしょうもない風習はそれほどないように思うが、それでもたまにある。
僕の場合は、自分でする必要がないと思うことはしないし、相手がそのことで評価を下げるような人間なら、いくらでも下げてもらって構わないと思っている節がある。
ただ、そういった慣習を完全に無視するほど豪胆ではないし、必要なことなのだと納得できればやる。「文化の尊重」という言葉を最近意識する。
ただ、時たま、かなり数としては少ないが、本当に意味のわからない、あまりに下らない慣習があったりするので、意図的にしないようにしている。あるいはごまかしているというのが現状である。
こういうことを言うと、「若いね」であるとか、「サラリーマンっていうのは理不尽に耐えないといけないんだ」とか、「家庭を持って守るものができると変わるよ」だとか言われがちである。
たしかに僕はまだ若いし、会社で働くということもよくわかっていない。それに、うちの会社は世の他の会社に比べたら働きやすい方だろう。
もう少し長く生きると考え方も変わってくるとは思うが、変わった後の考え方も、今の考え方をベースにしたものであってほしい。
頑固な人間である。
いやいやいや
先日気づいたのだが、僕は社会人特有の「いやいやいや」みたいなやりとりが嫌いだ。
「いやいやいや」が現れてくる場は、基本的に飲み会である。
「いやいやいやここは◯◯さんが上座に座ってくださいよ」
「いやいやいや私が会計しますよ」
「いやいやいや◯◯さんは座っててください」
みたいなやつだ。
まあ、これが出てくるのはわかる。相手を敬う、尊重する気持ちだ。素晴らしい。
目上の人間がさっさと一言礼を言って上座に座ればいいし、払いたいやつが払えばいいし、まとまらなければ割り勘にでもすればいい。そうすればすぐに終わる。それだけのことだ。
問題はこれを断ることである。
「いやいやいやここは◯◯さんが上座に座ってくださいよ」
「いやいやいや私にはもったいないんで△△さんが」
「いやいやいや」
「いやいやいや」
「いやいやいやいや」
これだ。これである。
このやりとり、この時間、マジ下らん。
さっさと座れ。アホか。遠慮とかいらん。さっさと礼を言って座ればいいんじゃ。
もし「あえてまず一度上座を勧めることで、本当に遠慮なく座るかどうかを試している」とかそういうクソみたいなことをしてるならそいつはもう人間やめろ。土に還れ。
そう思ってしまうので、僕はやはりサラリーマンに向いていないかも知れない。
よ〜く考えよ〜 言い方は大事だよ〜
言い方、というのは大切なものだ。
内容のいかんに関わらず、言い方次第で受け取り手の印象は180°変わり得る。
たとえば「このリンゴはまずくて食べられたものではない」ではなく、「このリンゴは私の口には合わなかった」と言えば、原因はリンゴより自分の舌にあるとも取れ、リンゴを買ってきてくれた人との間に角が立たない。
「他に好きな人ができた。お前にはもう愛情がないから別れる」ではなく、「私たち、お互いもっとふさわしい人が他にいると思うの」と言えば、ネガティブな理由に無理やりポジティブ感を与えることができる。
「影響があるかどうかはわかりません」ではなく、「直ちに影響が出ることはないものと考えています」と言えば、今すぐだけではなく、将来的にもなんとなく影響がないような気がしてくる。
言い方というのは、そのくらい大事なものなのだ。
これらの例はネガティブな言い回しをポジティブに言い換えるものだったが、もちろん逆もあり得る。
……今日はこの辺にしておこう。
他人に対して怒ることはそれほどないと自負しているが、イラつくこともある。人間だもの。
台風よ来い
台風にワクワクするうちは、まだ大丈夫だと思っている。
なにが「大丈夫」なのかはわからないが、何しろまだ「大丈夫」だ。
揺れる木々の枝。窓を叩きつける横なぐりの雨。溢れた側溝。濁った水。そして真っ青に晴れ渡る台風一過の空。
平和な日常を壊す台風の到来は、一種のエンターテインメントであり、ワクワクしてしかるべきものだ。
その台風に、ワクワクしなくなったら。会社に行く電車を止めるだけの、単なる厄介者として扱い始めたら。
それは一人の人間として、ちょっとつまらないのではないかと思ってしまう。
災害を楽しむなど不謹慎、というか声は甘んじて受け入れよう。たしかに台風は恐ろしい。今回の台風でも、全国で甚大な被害が出た。
そのような声に対する反論は特にない。
これは純然たる個人の見解であり、一つの意見だからだ。
彼らに言う言葉は特にないが、台風に対して、これだけは言わせてもらおう。
昼に来い。夜だとつまらん。
今日のところは以上だ。
エトセトラお休みします
今週は一週間丸々研修のため、エトセトラはしばらくお休みします。
眠い。
ハッピーバースデートゥーミー
今日は僕の誕生日だ。
ご存知の通り、誕生日とは生まれた日であり、祝うべきものである。僕も既に何人かの友人からお祝いの言葉をもらい、大変嬉しい限りである。
ところでこれは極めて当たり前のことだが、誕生日は一年ごとにやってくるものだ。生まれた日から数えて365日、8,760時間経つたびにお祝いをする。
これ、考えてみると不思議である。
一年という時間の長さは、地球が太陽の周りを回る、公転運動の周期に由来している。はるか昔、人々は太陽の位置で一年を知り、潮の満ち引きで一月を知り、日の出と日没で一日を知ったはずだ。
地球が太陽の周りを(地球で主に使われている一日という単位を使えば)365日で回るというのは、たまたま地球がそのくらいの公転周期になる場所にスッと入って落ち着いたからそうなっているだけで、何らかの理由があってそうなっているわけでは全くない。
もし恒星の周りを(地球でいう)一万年かけて回る惑星から宇宙人が来て、地球人の誕生日パーティーを見たら、「あいつらはなぜあんなに頻繁に誕生日パーティーをしているのか、アホか」と思うはずだ。
太陽系を見てみると、水金地火木土天海。つまり、地球は太陽系の惑星で三番目に公転周期が短い惑星であって、三番目に頻繁にお誕生日パーティーが開ける惑星なのだ。
一番外側の海王星の住人なんて、誕生日パーティーがめちゃめちゃ貴重なものとされているに違いない。今、ググってみたら公転周期は165年くらいらしい。
165年に一度しか来ない誕生日。そもそも死ぬまでに誕生日を経験できないし、めちゃめちゃ長生きして経験できたとしても、ロウソクを吹き消す息があまりの緊張に震えてしまいそうである。
さて、そんな幸運な星に生まれた僕は、今年晴れて23回目の誕生日を迎えた。地球の公転周期と、祝ってくれる気のいい友人たちに感謝して、今日一日を過ごそうではないか。