六駅分のエトセトラ

家からオフィスまでの六駅で綴る何らかの文

OTOTとANI

最近、トイレが快適だ。

 

ちょっと新しい商業施設や駅のトイレなんかに行こうものなら、ウォシュレットや温かい便座があるのは当然として、便座の消毒液からベビーベッド、水を流す音で用を足す音を消すやつ(最近は男子トイレにもたまにある)まで置いてある。遂には便座まで自動で上げ始めたし、喋るトイレもあるらしい。

 

その設備の多様さ、充実ぶりと言ったら、もはや怖いくらいである。(実際、勝手に開く便座は未だにちょっと怖い)

そんな感じなので、ついついトイレに長居しがちだ。汚いと言われればそれまでだが、スマホをいじり始めると止まらない。あっちの個室も、そっちの個室も、ケツ丸出しでフリックの嵐である。

 

駅や商業施設では、おそらくスマホをいじっているであろう輩のせいで、個室に長い長い列ができていることも珍しくない。

 

待っている人がいるとわかっている時は、スマホをいじるなど言語道断、さっさとウンコしてさっさと出るのが僕のつまらない矜持である。

 

ちなみに、奴らはノックすると意外と早く出てくる。片っ端からノックしまくろう。

 

さて、トイレがトイレでなく「便所」だった昔、そこはもっと汚く、怖く、不快なところだったと思う。

 

名作「となりのトトロ」を観ても、メイはサツキと一緒でないと、用を足せなかった。いくら仲のいい姉妹とは言え、わざわざ真夜中に姉を起こさないとトイレに行けないのである。相当に怖いのだ、あの家のトイレは。たぶんボットンだろう。スマホを落としたら一巻の終わりである。為すすべがない。アップルストアに電話する前にスマホの葬式の準備だ。

 

もしあの家のトイレが、温かい便座を勝手に開いて「おかえりなさい、今日はウンコですか?」とでも喋るようなトイレだったら、メイもウキウキで単独ウンコを楽しんでいることだろう。

 

こう言うと、あたかもトイレが快適になっていることを批判しているようだが、これは良い傾向ではある。排泄は人間のごく自然な行為だからだ。

 

下手に不快なイメージが根付くと、全国の小学校に「ウンコマン」が大量に発生し、全国の小学生が涙を流しながら便秘になってしまう。我慢はよくない。快適なトイレで、したい時はしよう。それが自然というものである。

 

今後ますますトイレが快適になると、人間の住居空間におけるトイレの占める面積は拡大し、いずれ人はトイレに住むようになるかもしれない。

 

3LDKが3LTKになる日も近い。

 

時間の都合上、少々話が飛躍した。

 

今日も元気にウンコをして、元気に会社へ向かう。

きり丸

タダほど高いものはない。

 

この言葉、なかなか言い得て妙である。

 

本当の意味での「タダ」というのはすなわち無償の愛だが、これはふつう家族からしか得ることはできない。

 

世の中で一般的に「タダ」と言われているものは、「タダより高いものがない」とまでは行かないものの、実際には「タダ」ではないことが多いのだ。

 

多くの「タダ」は、何らかのルートで対価を支払っているか、価値提供者の意図に反している──「フリーライダー」、あるいは「泥棒」と呼ばれることもあるが──かのどちらかである。

 

以下で二つのパターンを見て行こう。

 

①何らかのルートで対価を支払っている場合

 

例えば、公園の水道で飲む水は「タダ」だ。お金を払わずに、いくらでも飲むことができるし、いくらでも使うことができる。

 

しかし、公園を整備しているのは行政であり、その資金源は税金である。納税者である限り、あらゆる公共施設は本来の意味での「タダ」にはなり得ない。消費税、所得税、住民税、法人税、たばこ税……公園の水道の裏には、日々知らないうちに払っている税金がある。

そのことを思えば、出しっ放しにして遊ぶなど言語道断だ。いくらお砂場に溝を掘って水を流す遊びがとってもたのしいとはいえ、水道水は大切に使うべきである。

 

税金はこの「何らかのルートで対価を払っている」のパターンにおける一つの例だが、税金を払っている人間の数を思えば、自分に返ってくる「対価」はそれほど大きくはない。このパターンでより重要視するべきは、たとえば「◯◯カードに申し込めば今なら■■ポイントもらえる!!」だとか、そういうやつである。

 

クレジットカードを例に上げれば、ほとんどのクレジットカードには年会費がある。「初年度無料」の文言と雀の涙ほどのポイントで消費者を釣り、年会費と手数料で丸儲けするのだ。なかなかどうしてあくどい商売である。

 

まあ、便利だし、そういうビジネスだし、必要ない人は作らなければいいだけの話なので何の問題もないのだが。

一般的に「タダほど高いものはない」が意味するのは、こっちのパターンであることが多い。

 

②価値提供者の意図に反している

 

これはたとえば「マックのコンセントでスマホを充電する」とか、「スーパーの小さいレジ袋を大量にもらう」みたいなやつのことである。これ、普通に犯罪であることが多い。

マックは客にスマホを充電させるためにコンセントを設置しているわけではないし、スーパーには大量に豚バラ肉を買ったわけでもない客に大量の小さいビニール袋を寄付する義理はないのだ。

 

こっちのパターンはダメである。普通にダメなやつ。

 

…ということで二つのパターンに分けて「タダ」を考えてみたが、冷静に考えてみるとこの二つに分類できない「タダ」がいっぱいある気がしてきた。街中でもらうポケットティッシュの「対価」は限りなくゼロに近いし、丸亀製麺の天かすは食べ過ぎると医療費がかさむ。家の近くで野草を摘めば、夜ご飯のおかずはタダだ。天ぷらにすればだいたい食えるんだ、あいつらは。

 

「タダ」というシロモノ、タダものではない。

MOTTAINAI

食べ物を残す人の気持ちがわからない。

何しろ、現代人はなにかと食べ物を残しがちである。

 

ふとファミレスで周りを見渡せば、散々ペチャクチャ喋った挙句、大量の料理を残して去って行くママさんグループや家族連れが目につく。その甘ったるそうなパフェを食ってる胃袋があったら、目の前のスパゲッティを片付けろよ。なあ。まあおれもパフェ好きだけど。別腹だけど。

 

居酒屋に目を移せば、一次会でたらふく食った癖に、二次会では食べ切れもしない料理をバカスカ頼み、大量のぬるいビールと共に、大量の料理をドカンと残すオッサンの多いこと、多いこと。

 

あれ、マジで理解できないのだ。

 

何も、死んでもいいからとにかく全部食え、と体育会的マッチョ論を振りかざしているわけではない。食べ切れないなら仕方ないだろう。人間の胃袋には限界がある。

 

あっちこっちでマーライオンが出現しても店内が阿鼻叫喚の地獄絵図と化すだけなので、そんなに無理して食べなくてもいい。ただし次回来店時は、今回の教訓を踏まえて少なめにしてもらおう。それだけのことだ。

 

ダイエット中、というのもまあわかる。アレルギーがあるのも仕方ない。どちらも頼む前にご飯を少なめにしてもらうとか、アレルゲンが含まれていないか確認するとかしてほしいところだが、まあ理由があるので許せる。(僕が許さないからなんなのだという話ではあるが)

 

しかし許せないのは、意味もなく残す輩である。特に理由はないけど、なんとなく食べたくないから。食べる気が起きないから。そういった「理由にならない理由」で食べ物を残す輩が、マジで理解できない。

 

だって、もったいないではないか。単純に。もったいなくない?

 

食べ物を残すという行為に、彼らは罪悪感を覚えないのだろうか。大量に頼んだ料理に一度も箸をつけず丸ごと残すなど、ノーベル平和賞ワンガリマータイさんが白眼を剥いてぶっ倒れるレベルのもったいなさではないか。

 

何も食べ物に限った話ではない。家中の照明を点けっぱなしにしたり、歯磨き中に水を出しっ放しにする人は、電気代がかかるとか、水道代がかさむといった金銭的損得勘定の前に、「もったいない」と思わないのだろうか。

 

……思わないのだろう。きっと。

 

結局これは価値観の違いでしかないので、僕一人が(こんな誰も見ていない場所で)ワーキャー言ったところで誰にも影響は与えないし、仮に与えたところでそう簡単に変わるものでもない。

 

飲食店で残され捨てられて行く大量の料理を見ても、蚊の鳴くような声で「MOTTAINAIMOTTAINAI…」と虚ろにつぶやきながら、唇を噛み締めて耐える他ないのである。

 

そして僕は、今日も自炊でごはんを作りすぎて、一人フードファイトを始めるのだった。食べ切れなくて腐らせたら、もったいないもんね。

リアル鬼ごっこの原作がすごいらしい

日本人の苗字は実に種類が多い。なんかもう、死ぬほどある。何を隠そう筆者も相当に珍しい苗字をしているのだが、わけのわからない苗字が日本には死ぬほどある。どれだけあるんだよ。少し減らせ。

 

まあそれは置いておいて苗字の由来を考えたい。多いところから行こう。まずは田中だ。田中はわかる。田んぼの中だ。実に分かりやすい。きっとのどかな田園地帯に住んでいたのだろう。

 

山田も相当わかりやすい。山と田んぼが多い場所に住んでいたに違いない。山。田んぼ。カエルの鳴き声。青い空。いずれもクソ田舎丸出しのしょうもない苗字ではあるが、なんだか今度の夏休みには田舎に泊まりたくなってくるし、わかりやすさで言えばトップクラスだ。

 

あと、森や林なんかも言わずもがなである。木、木、見渡す限りの木。森林大国日本を象徴するかのような良い名前ではないか。花粉症患者は敬遠するかも知れないが、たくさんいるのもうなずける。戦後日本の植林政策を許すな。

 

しかしここで改めて苗字ランキングを見てみよう。一位は佐藤、二位鈴木。三位が高橋で、四位にようやく田中が出てくる始末だ。賢明な読者の方々ならもうお気づきであろう。そう、上位の苗字が遊んでいるのである。こんなところで遊び心を発揮するな。毛先を遊ばすな。

 

まあそれでも高橋はまだわかる。高い橋があったのだろう。村に。代々伝わる高い橋が。国土の8割近くを山岳地帯が占める国である。高い橋の一つや二つ、おおよその村にはあったのだろう。

 

しかしここに来て鈴木と佐藤は何だ。上位はもっとこう、ドンと構えとけ。田中を見習え。田中の安心感やばい。あいつ絶対田植え上手いし、多分パワプロも上手い。好きな食べ物聞いたら多分「おにぎり」だ。ゲームとか貸してくれるし、ああいう奴好きだよ、おれ。

 

一方の佐藤や鈴木はなんだ。調子に乗るな。なんだ佐藤って。佐の藤ってなんだよ。意味わかんねえよ。新種の花かよ。でもこの季節結構キレイかも。あと鈴木はもうドラえもんの首についてる奴がいっぱいなってる木しか思いつかないから出直してこい。

 

お前ら名前で目立とうとするな。結局かぶってるから。めっちゃ多いから。その苗字。日本でツートップだから。全く個性発揮できてないから。心に愛と書いて「心愛(ここあ)」みたいなもんだから。DQNがいっぱいつけすぎて、もはや全く個性的じゃなくなっちゃってるやつだから。

 

今からでも間に合うからもっとありがちな苗字に変えなさい。「草」とか。「土」とか「ドブ」とか。今風に「ビル」でもいいよ。そしたらほら、ビルゲイツみたいでカッコいいじゃん。金運上がるかもよ。

 

みたいなことを言ってると、全国数百万人を敵に回すのでダメである。絶対ダメ。

下手な鉄砲は数を撃っても当たらない

当ブログの更新頻度を見直そうと思う。

 

今までは、「とりあえず毎日やってみよう」というスタンスで更新を行なってきたが、15分で文章を書くというのはやはりなかなか難しいものがある。

 

テーマ選びも偏りがちだし、ちょっと表現に悩んでいたらタイムオーバー、ということも多々あった。

 

最近は特に、「眠い」というテーマの記事が増えすぎていた傾向があったし、クソみたいな記事が多かったと自負している。

 

ということで、当ブログの更新は、現在の平日毎日更新スタイルから、火曜と金曜の週2回スタイルに変更しようと思う。

 

下手な鉄砲も数打ちゃ当たるというが、もしその鉄砲を地面に向けて撃っていたら、いつまでたっても空飛ぶ雁を撃ち落とすことはできないだろう。

 

(週二回更新にすれば本当に「上手な鉄砲」が撃てるのかなどという無粋なツッコミをしてはいけない)

 

量より質に、方針を転換するわけだ。

 

量が減っただけで質が上がらないという結果だけはなんとしても避けたいので、気を引き締めてやって行きたいと思う。

レベッカ

サラリーマンというのは難儀な人種である。目上の人におべっかを使うためにクソしょうもないことをしなければいけない場合がある。

 

幸いうちの会社はそのようなクソしょうもない風習はそれほどないように思うが、それでもたまにある。

 

僕の場合は、自分でする必要がないと思うことはしないし、相手がそのことで評価を下げるような人間なら、いくらでも下げてもらって構わないと思っている節がある。

 

ただ、そういった慣習を完全に無視するほど豪胆ではないし、必要なことなのだと納得できればやる。「文化の尊重」という言葉を最近意識する。

 

ただ、時たま、かなり数としては少ないが、本当に意味のわからない、あまりに下らない慣習があったりするので、意図的にしないようにしている。あるいはごまかしているというのが現状である。

 

こういうことを言うと、「若いね」であるとか、「サラリーマンっていうのは理不尽に耐えないといけないんだ」とか、「家庭を持って守るものができると変わるよ」だとか言われがちである。

 

たしかに僕はまだ若いし、会社で働くということもよくわかっていない。それに、うちの会社は世の他の会社に比べたら働きやすい方だろう。

 

もう少し長く生きると考え方も変わってくるとは思うが、変わった後の考え方も、今の考え方をベースにしたものであってほしい。

 

頑固な人間である。

いやいやいや

先日気づいたのだが、僕は社会人特有の「いやいやいや」みたいなやりとりが嫌いだ。

 

「いやいやいや」が現れてくる場は、基本的に飲み会である。

 

「いやいやいやここは◯◯さんが上座に座ってくださいよ」

 

「いやいやいや私が会計しますよ」

 

「いやいやいや◯◯さんは座っててください」

 

みたいなやつだ。

 

まあ、これが出てくるのはわかる。相手を敬う、尊重する気持ちだ。素晴らしい。

 

目上の人間がさっさと一言礼を言って上座に座ればいいし、払いたいやつが払えばいいし、まとまらなければ割り勘にでもすればいい。そうすればすぐに終わる。それだけのことだ。

 

問題はこれを断ることである。

 

「いやいやいやここは◯◯さんが上座に座ってくださいよ」
「いやいやいや私にはもったいないんで△△さんが」
「いやいやいや」
「いやいやいや」
「いやいやいやいや」

 

これだ。これである。

 

このやりとり、この時間、マジ下らん。

 

さっさと座れ。アホか。遠慮とかいらん。さっさと礼を言って座ればいいんじゃ。

 

もし「あえてまず一度上座を勧めることで、本当に遠慮なく座るかどうかを試している」とかそういうクソみたいなことをしてるならそいつはもう人間やめろ。土に還れ。

 

そう思ってしまうので、僕はやはりサラリーマンに向いていないかも知れない。