六駅分のエトセトラ

家からオフィスまでの六駅で綴る何らかの文

ルールの批判

 

某KB某ティーエイト系列のアイドルグループのとあるメンバーが、先日行われた某選挙で結婚発表をしたことが話題になっていた。

 

某KB某ティーエイト系列は、「恋愛禁止」を絶対的なルールとして掲げていることがよく知られている。

 

にも関わらず某メンバーは、年に一度の某選挙という大イベントの場で、「恋愛」を通り越して「結婚」の発表をしたのだ。

 

これに対し、多くのファンが大ブーイング。数人の主要メンバーがInstagramTwitterで遠回しに批判をしたことも話題となった。

 

この問題について考えてみたい。

 

予め述べておくと、僕はこの某メンバーのとった行動に対して批判的だ。

 

ただし、「年頃の女の子の恋愛を禁止するなんて酷い」という意見には強く同意する。

 

どういうことかというと、僕は「ルールの批判と違反者の擁護は分けて考えるべきだ」という主張をしたいのだ。

 

たとえば、私がどこかの山奥で遭難し、山を歩いていたおじいさんに助けられて一晩泊めていただくことになったとしよう。

 

おじいさんが住むその村には、古くから

 

「あくびは神への冒涜である。よって、あくびをした者は磔にし、村人全員で石を投げて殺す」

 

という習わしがあったとする。

 

この時、たとえおじいさんが深夜まで延々と話し続ける武勇伝が死ぬほどつまらなくとも、私は必死であくびを我慢しなければならないはずだ。

 

石を投げつけられて殺されるのはどう考えても嫌だからである。

 

あるいは、あくびをすることがいかに自然で、神への冒涜になり得ない行為であるかを、村人に説く必要がある。

 

古くから伝わっている習わしであり、説得に時間がかかるであろうことは容易に想像できるが、やってみる価値はある。

 

いずれにせよ、あくびをして磔にされてから「あくびくらいしてもいいじゃん!!よくない??」などと叫んでも無駄である。

 

石は容赦なく飛んでくるはずだ。

 

もちろん、あくびは生理現象だから、あくびをした私は本来責められる理由などない。

 

しかし、その村であくびをした以上、石を投げられるのは仕方がないことなのである。

 

どれだけ馬鹿げていたとしても、あくびをしないことが村のルールだからだ。

 

どうしてもあくびがしたければ、村をこっそり抜け出すか、先述のように村人を説得するしかない。

 

つまり、既存のルールに対して異論があった時に取るべき行動は二つだ。

 

ルールを変えるために働きかけるか(この手段は往々にして痛みを伴う)、そのルールが適用されるコミュニティから抜けるか、いずれかである。

 

それをしない以上、罰を甘んじて受け入れるしかないのだ。

 

ルールとはそういうものである。

 

某ティーエイトの件の場合、「恋愛禁止」のルールを変えることは実質的に不可能だっただろうから、某メンバーはルールを破る前にグループを脱退すべきだったと僕は思うわけである。

 

ただ、それほど簡単には行かない事情があったのかも知れないし、あれだけのことをしたわけだから、少なくとも批判の矢面に立つだけの度胸はあったのだろう。

 

事実彼女はファンからの大ブーイングを「甘んじて受け入れて」いる。

 

そして一つだけ言えることは、僕は某ティーエイト系列があまり好きではないし、ぶっちゃけすごいどうでもいいし、あとラーメンが好きだということである。

 

ラーメンが食べたい。(昨日も食べた)