当たり前の区切り方
1時間は60分である。
1日は24時間で、1年は365日だ。
何を当たり前のことを、と思うかも知れない。
しかし、よくよく考えてみるとこれらの数字は「当たり前のこと」ではない。
時間の単位という概念がまだほとんどなかった大昔、時間を区切る根拠はそれほど細かくなかったはずだ。
日の出と日没によって区切られる1日と、夜空の月や星の位置、季節の移り変わりによって区切られる1年。
地球と太陽の位置関係、自転と公転の速さによって決まるこの二つは、人間が決めたものではなく、ある種の偶然によって決まったものだ。
そのため、1年は365日という非常に中途半端な数字になっているし、厳密には365日ではないため、うるう年だとかうるう秒なんてものが必要になってくる。
一方で1日は(本来)ぴったり24時間である。
なぜなら、1時間とは1日を24分割して決められた時間の長さだからだ。
(なお、現在はなんかの原子の振動する数かなんかで1秒を定義しているので、ボトムアップ的に時間の長さの定義が変わって確か1日は24時間ではなくなっているのだがそれはひとまず置いておこう)
そして同じ理由で、1時間はぴったり60分である。
なぜなら、そういう風に決められているからである。
「水が0℃ぴったりで凍って100℃ぴったりで沸騰するのはすごい!」というジョークがあるが、考え方としては近い。
さて、この12、60という数字を誰が決めたのかは知らないが、約数が多くて非常に便利な数字である。
60進法的考え方は、はるか昔から今まで、メートルとヤードのように混在することもなく、全世界で用いられている。
これだけ広く用いられるような便利な時間の区切り方を考え出した先人が、どこかにいたのだ。
誰だか知らないが、先人、偉大である。
僕が決められる区切り方なんて、サイゼリヤで出てきたピザの切り方くらいのものだと言うのに。