六駅分のエトセトラ

家からオフィスまでの六駅で綴る何らかの文

若親や子供撫でずにスマホ撫で

子どもの泣き声というのは、聞いていて快いものではない。単純にうるさいというだけではない、表現しがたい不快さを持った音だと思う。

 

そもそも子どもの泣くという行為は、周りの大人に助けを求めるということだ。

 そう考えると、この気にせずにはいられない不快な音も、非常によくできたものだと感心すらしてしまう。

 

何にせよ、僕は子どもの泣き声が好きではない。

 

こういうことを言うと、ああ、子どもが嫌いなんだね、そういうことを言うとモテないよ、だから「結婚できなさそうだね」って言われるんだよ、などと批判されそうだが、決して子どもが嫌いなわけではないのだ。

 

先述の通り、子どもの泣き声は不快に感じられてしかるべきものである。そして世の中にこれだけ多くの人間がいる以上、生まれて間もない子どもがいるのは当然のことだ。

 

満員電車や飲食店の隣の席で、子どもが突然金切り声を上げることがあるのは当たり前のことなのだ。

 

雨が降るのと同じようなものである。喜ぶ人は少ないが、当然のことだと諦めて、対策を取る。

 

雨が降ったら、傘をさすだろう。

 

僕が批判したいのは、傘をささない、すなわち対策を取らない人間である。自分の子どもが泣いたら、なだめすかし、あやすのが親というものではないのか。スマホの画面を撫でるより、我が子の頭を撫でるべきではないのか。自分の子どもが、これほど力いっぱい助けを求めているというのに。

 

そういう親を見ると、僕は泣き声の不快さを忘れるほど、言いようもなく不快になるのである。

 

ただ、何事もやってみないとわからないもので、もしかすると子育ては僕が想像する以上に苦しく辛いものであり、いちいち子どもに構っていると精神をやられてしまうと思って、自己防衛として無視しているのかも知れないとも思う。

 

子どもを放っておいてパズドラに興じるのは、彼ら、彼女らなりのSOSなのだろうか。

 

答えは、子どもを持たないとわからない。

 

そのためには、まずは彼女を作らなければいけない。

 

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