六駅分のエトセトラ

家からオフィスまでの六駅で綴る何らかの文

言葉の変化は避けれない

ら抜き言葉は、「見れる」と「来れる」だけ許した。

 

当方、言葉に少々うるさい人間である。「的を得る」「せざる負えない」といった細かい間違いを見ると、言いようのないイライラを感じてしまうタイプの人間だ。

 

ら抜き言葉はその筆頭である。日本語の乱れとして近年よく取り上げられており、相当数の人が使っている実感がある。

 

そのら抜き言葉を、僕は「見れる」と「来れる」だけ、今のところ認めた、という話である。(僕が認めたところで何にもならないのだが)

 

そもそも、言葉というのは時代に応じて姿を変えるものである。「独壇場」はもともと「どくせんじょう」だったし、「新しい」は考えてみれば本来「新たしい」だ。「確信犯」はダメだとわかってやることではなく、ダメじゃないと確信してすることだった。

 

(この三つの例は意味が変わった時代がかなり違うので並列するのは適切でないかも知れないが)そのような完全に市民権を得た言葉に対して、「それは間違いで、元々はうんぬん…」と指摘するのはあまりにも野暮といったものだろう。

 

だから僕はら抜き言葉に関しても、心の中で「ああ、あの人はら抜き言葉を使っているなあ」と思うだけで、指摘することはしない。(なお、基本的に間違いは正してあげた方がその人のためだと思っているので、指摘できるような状況と相手との関係であれば、積極的に正して行こうというのが僕の姿勢である)

 

それに、ら抜き言葉は便利だ。助動詞「る・られる」は、可能だけではなく受身や尊敬の意味を持っている。「食べられる」という言葉が、
「(好き嫌いを克服したのでピーマンを)食べられる」のか、
「(シマウマがライオンに)食べられる」のか、
「(部長がお寿司を)食べられる」のか(これは普通召し上がるだ、例が悪かった)のか、
判断がつきにくいのである。

 

一方、ら抜き言葉は便利だ。可能しか表さないので、らを抜きさえすれば意味は一意に定まる。なるほどこれは部長がお寿司を召し上がる話ではなくて、たかしくんが好き嫌いを克服した話か、と一瞬で判別がつくのだ。これは地味に便利である。

 

さて、最初にも述べたように僕は未だに「見れる」と「来れる」しか認めていない。この二つだけ許している経緯は、この利便性にもやや関係があり、「見られる」と「来られる」は響きがあまり可能に聞こえないということに起因している。

 

とは言え、僕がいくら許さなかったところでら抜き普通は将来きっと市民権を得るし、何か意味があるわけではない。

 

ただ、ここでちょっと意見を表明することで、もしかしたら誰かから同意を得れるかもなと思った次第である。