六駅分のエトセトラ

家からオフィスまでの六駅で綴る何らかの文

親指が動く

毎日のように15分で何らかの文章を書いていると、面白いように一気に書ける時と、なかなか筆が進まない時とがある。

 

面白いように一気に書ける時は、だいたい何も考えていない。無意識に親指が動いている感じだ。眠い頭に、次から次へと言葉が浮かんでくるから、あとはそれを適当に繋げばいい。こういう時はだいたいしょうもないことを書いている。

 

対して、なかなか筆が進まない時はというと、これまた何も考えていない。ちっとも言葉が浮かんでこないのだが、頭が働いていないので、どうしようもない。こういう時も、内容は極めてしょうもない。

 

要は、頭が働いているかどうかと、内容のしょうもなさは、筆が進むか否かには関係ないということだ。答えが出てしまった。ああ、しょうもない。

 

ところで、「筆が進む」という表現を使っているものの、いま僕は、筆どころかペンさえも使ってはいない。元気に動いているのは左手の親指だ。上下左右、縦横無尽に動き回る親指が、何の役にも立たない、クソしょうもない文章をリアルタイムで紡ぎ出している。

 

考えてみると、「筆が進む」時に動いているのは親指だし、「筆箱」に入れるのはボールペンだ。「下駄箱」には革靴を入れ、「わらびもち」はジャガイモから作るし、「新幹線」はリニアができたらもはや新しい幹線ではないだろう。

 

言葉の名残りというのは面白いもので、一度その言葉が市民権を得ると、周囲の環境が変わってもなかなか変わらない。

 

というわけで、最近できた言葉で、未来は意味が通らなくなっているであろうものを挙げてみよう…と思ったのだが、最近新しくできた言葉がどうやらそもそもなさそうである。

 

最近できた言葉というのは、例えば「激おこぷんぷん丸」だとか、「草」だとか、「インスタ映え」だとか、「卍」だとか、ネットスラングも若者言葉もごちゃ混ぜだが、こういうものはみんな既存の言葉のツギハギであったり、言い換え、新しい意味付けによって生まれている。だから、さっき僕が試みたような、本来の意味と異なって使われるかも知れないような言葉の例は、この中から見つけるのが難しかった。

 

人口が減少し、経済が縮小して行くこれからの時代、リノベ物件やフリマアプリが市場を賑わせているのを見てもわかるように、新しいものを作るよりも、今すでにあるものを作り変えたり、再利用したりするのが昨今の流行りであるのは間違いない。

 

もしかすると、言葉の世界でも、そういう傾向があるのかも知れない。

 

今日は親指がよく動いた。