六駅分のエトセトラ

家からオフィスまでの六駅で綴る何らかの文

昔の人あざ〜す

飽食の時代と言われる。食事をすることはごくごく当たり前の行為で、そこにありがたみを感じる人は少ない。食べ物に対する意識が低いから、大量に食べ残し、バッサバッサと捨てるのが現代人だ。

 

一方昔の人は大変だった。昭和や大正の時代はもちろんそうだが、江戸時代とか、平安時代、あるいはもっと昔の時代に生きていた人々というのは、その日その日に食べる物すら十分に確保できていない、という生活を長年続けてきたのだと思う。

 

なんだか説教くさくなってしまったが、食べ物を捨てる人間に説教がしたいわけでは決してない。(個人レベルで意味もなく食べ物を捨てまくる人間には説教をしたいが、別の機会にしよう)僕が今回言いたいのは、昔の人、いくらおなかへってるとは言っても何でもかんでも食べ過ぎなんじゃないのということだ。

 

たとえばよく言われるのは納豆である。改めてよく考えてほしい。納豆、腐った豆である。あれ完全に腐った豆だ。うまいけど。うまいけど腐った豆だろうあれは。

 

こう言うと、「発酵と腐敗を混同するな殺すぞ」とか言うやつが現れそうだが、その指摘は正しいようで正しくない。発酵と腐敗という現象はいずれも微生物が繁殖している点で同じであり、その現象が人間にとって有用か否かで区別をしている極めて曖昧なものだからだ。

 

たとえば、冷蔵庫に二ヶ月入れっぱなしにしたらドロドロになって酸っぱい臭いを発している牛乳があったとして、これはおそらく乳酸菌が支配している「有用な」発酵なのだが、先ほどの指摘をしてきたアホは果たしてこれを飲めるだろうか。飲めないならばその指摘に意味はない。

 

結局、昔の人はあまりに空腹だったために果敢にも「腐った豆」を食べて、意外と美味しかったから我々は今も食べているのだと思うのだ。なお、さっきの牛乳は言わずもがなヨーグルトである。

 

さらに、エビやカニもすごい。冷静に眺めたら、あいつらほぼエイリアンである。手足の造形とか、信じられないキモさだ。あんなもんほぼGと一緒である。甲殻類なんかルックス的にはほとんど昆虫だ。見た目はクソまずいだろう、奴らは。

 

しかし、いざ食らってみるとなかなかどうして美味である。甲羅にたっぷり収まったカニミソに身をほぐして和えたやつなんか最高だろう。ああ、かに道楽行きたい。行ったことないけど。

 

あとはフグである。「こないだあいつあそこ取り除いて食ったけど死んだから、今回はここを取り除いて食ってみよう!!」みたいなことをきっと何千人何万人と繰り返した結果が今のフグなのだろう。クレイジー以外の何者でもない。昔の人、いくらなんでもチャレンジ精神が旺盛すぎる。命を大切にしない奴なんか大っ嫌いだ。でもフグうまいから許す。好き。

 

他にもこんにゃくとかブルーチーズとかクレイジーな食べ物はいくらでもあるが、総じて言えることは昔の人なんでも食べ過ぎだし、なんでも食べてくれてありがとうということである。昔の人がめちゃめちゃおなかへってたことと、それ故にめちゃめちゃチャレンジ精神に溢れていたことによっていまの多様な食文化があるのだ。

 

昔の人、サンキューな!

でもさすがにあの小松菜は捨てたわ!ちりめん細工みたいになってたし!

じゃ、またな!