六駅分のエトセトラ

家からオフィスまでの六駅で綴る何らかの文

立ち食いそば道

立ち食いそばには、わびさびの趣があると思う。

 

かの有名な茶人、千利休は、茶の湯を楽しむ部屋である茶室をあえて小さく作ることで、武士達の権力の象徴である大きな刀を、茶室の中に持ち込めないようにした。そのことにより、あらゆる肩書きをそぎ落とした、純然たる一人の人間として、茶の湯と向き合うことを仕向けたのである。

 

立ち食いそばも同じである。属す会社の大小や、年次の高低、収入の多寡は立ち食いそば屋においては意味のないものである。全てのおっさんが、狭い店内で皆平等に、あの本当にそば粉が練りこまれているのか甚だ怪しい、妙に白っぽい安いそばをすする。

 

あの資料の納期だとか、あのプレゼンの準備だとか、そんなものよりも、今は目の前のそばに七味を何シェイクかけるかという問題の方がよほど大事なのだ。

 

仕事に関わるあれやこれやから一時的に解放されて、立ったままという決してお行儀が良いとは言い難い状態で、全てのおっさんが等しくそばをすするのである。

 

純然たる一人の人間として、そばに向き合う。その根底に流れるのは、まさに茶道の精神ではなかったか。

 

また、立ち食いそばは、その店構えも実に趣深い。

 

繁華街のターミナル駅、電車の通過する音が喧しいガード下に、埋もれるように佇む立ち食いそば。

 

田舎のだだっ広い駅のホームに、ぽつんと置いて行かれたように設えられた、5人もそばをすすろうものなら肩がぶつかり合ってしまいそうな立ち食いそば。

 

オフィスビルが林立する都会の街、再開発が進む近代的な街並みにそっと昭和レトロな雰囲気を添える、地上げ反対系の立ち食いそば。

 

そこにはまさにわびさびの趣を見出すことができるだろう。

 

化学調味料を前面に押し出した、安いだしを飲み干して、下膳口に盆を置く時、今度からこう言うことにしよう。「結構なお点前でした」と。

 

※なぜか白紙で公開されてしまっていたので投稿し直しました。なぜ。