六駅分のエトセトラ

家からオフィスまでの六駅で綴る何らかの文

そもそも「朝"ごはん"」ではないか

朝ごはんは、ごはん派だ。

 

ホッカホカの白いごはん。だしがふわりと香るアツアツの味噌汁。脂でツヤツヤ光る塩鮭。青ネギ、大根おろし、納豆。味のり。きゅうりの漬け物。

 

朝の短い時間の中で、彼らとの戦いを楽しみたい。

 

味噌汁ズズッ、塩鮭ホグホグ、ごはんハフッハフッ、青ネギバララッ、大根おろしソッ、醤油ツーッ、納豆クックッ、ネバーッ、ごはんハフッ、味のりパリパリ、時計チラッ、ごはんハフハフッ、納豆ズゾッ、味噌汁ズズッ、塩鮭ホグッ、漬け物ポリッ

 

日本人だからどうとか、そういう問題ではないのだ。

 

ごはんが食べたい。

 

ごはんは幸せを呼んでくれる。

 

ちなみに、テレビには当然おはよう日本が流れている。

 

パンを食べたい人は、パンを食べればいい。

 

しかし、僕は朝にごはんを食べたい、

 

ただそれだけのことである。

 

寝坊したことによる耐え難い空腹をさすりながら、そんなことを考える。

 

今日の記事は、一段としょうもないものになった。

かわいい女の子には彼氏がいる

 

 

この世に絶対はないというが、一つだけ絶対に言えることがあると思う。

 

それは、かわいい女の子には彼氏がいるということだ。

 

厳然たる真理である。

 

しかし、もし全てのかわいい女の子に彼氏がいると仮定すると、一つの問題が生じる。

 

そのかわいい子の彼氏は、いつ彼女と付き合い始めたのか、という問題だ。

 

この問題を解決しようとする時、三つの可能性が考えられる。

 

①その女の子と最初に付き合い始めて、そのまま続いている

 

②前の彼氏が死んだ(殺した)

 

③女の子がn股をかけている

 

かわいい女の子には彼氏がいる(その女の子がかわいいならば、彼氏がいる)という命題を真とすると、この3つ以外には原理的にありえないはずである。

 

(論理学に詳しい人、もしそうじゃなかったら教えてください)

 

まあ、そもそも仮定した命題が間違っているので、厳密に考えても意味はない。

 

全部③だったら面白いんだけどなあ。

当たり前の区切り方

 

1時間は60分である。

 

1日は24時間で、1年は365日だ。

 

何を当たり前のことを、と思うかも知れない。

 

しかし、よくよく考えてみるとこれらの数字は「当たり前のこと」ではない。

 

時間の単位という概念がまだほとんどなかった大昔、時間を区切る根拠はそれほど細かくなかったはずだ。

 

日の出と日没によって区切られる1日と、夜空の月や星の位置、季節の移り変わりによって区切られる1年。

 

地球と太陽の位置関係、自転と公転の速さによって決まるこの二つは、人間が決めたものではなく、ある種の偶然によって決まったものだ。

 

そのため、1年は365日という非常に中途半端な数字になっているし、厳密には365日ではないため、うるう年だとかうるう秒なんてものが必要になってくる。

 

一方で1日は(本来)ぴったり24時間である。

 

なぜなら、1時間とは1日を24分割して決められた時間の長さだからだ。

 

(なお、現在はなんかの原子の振動する数かなんかで1秒を定義しているので、ボトムアップ的に時間の長さの定義が変わって確か1日は24時間ではなくなっているのだがそれはひとまず置いておこう)

 

そして同じ理由で、1時間はぴったり60分である。

 

なぜなら、そういう風に決められているからである。

 

「水が0℃ぴったりで凍って100℃ぴったりで沸騰するのはすごい!」というジョークがあるが、考え方としては近い。

 

さて、この12、60という数字を誰が決めたのかは知らないが、約数が多くて非常に便利な数字である。

 

60進法的考え方は、はるか昔から今まで、メートルとヤードのように混在することもなく、全世界で用いられている。

 

これだけ広く用いられるような便利な時間の区切り方を考え出した先人が、どこかにいたのだ。

 

誰だか知らないが、先人、偉大である。

 

僕が決められる区切り方なんて、サイゼリヤで出てきたピザの切り方くらいのものだと言うのに。

et-OH

 

背の高さは、ほとんど遺伝で決まる。

 

いくら牛乳を飲んだところで、いくら毎日鉄棒にぶら下がってみたところで、

 

猫ひろしの息子の身長が180cmを超えることはないだろう。

 

低い身長を持って生まれた自分の運命を受け入れ、

 

低い身長なりの振る舞い方を考えるしかない。

 

グループではチビキャラを確立し、

 

すばしっこさを生かしたプレーを持ち味として、

 

身長が低くてもいいと言ってくれる彼女を見つける。

 

酒も同じことなのか。

 

アルデヒドをわずかしか分解することができない運命を受け入れ、

 

アルデヒドをわずかしか分解することができないなりの振る舞い方を考えるしかないのか。

 

世界は不公平にできている。

恵みの雨(お互いのライフポイントを1000ポイント回復する)

雨である。

 

6月下旬にして、久しぶりの雨だ。

 

今年の梅雨は雨が少なすぎて、各地で渇水が問題になっているという。

 

今日の雨が、少しでも潤いを生むといいと思う。

 

雨は天の恵みであると、よく言われる。

 

地面から蒸発した水分が雲となり、雨のしずくとなって再び大地へと還ってくるという水の循環は、

 

理科の授業で当たり前のように習ったことでも、改めて考えてみると不思議なことである。

 

おはよう日本のお姉さんによれば、今日は昼から夕方にかけて、関東で大雨になるそうだ。

 

水に濡れ冷たく光る東京のオフィスビル群が目に浮かぶ。

 

2Lペットたった二本でも腕にズシリとくる、あの重い重い水が、それだけ大量に空に浮かんでいるのだ。

 

遥か上空をフワフワと漂う、何万トンという量の水。

 

自然の力は偉大である。

 

我々は、雨という自然の贈り物に、もっと感謝するべきなのかも知れない。

 

そうすれば、ビニール傘から垂れる雨のしずくで僕のスラックスの裾を濡らしたあのOLのことを、僕は許すことができるだろうか。

非常食かもよ

 

「バナナはおやつに入りますか」

 

何の意味があるのかよくわからないこの問いに、我々はまだ答えられていない。

 

そろそろ、はっきりさせようじゃないか。

 

バナナはおやつに入るのだろうか。

 

この問題を考える上で、「おやつ」の定義を考えないわけには行かない。

 

おやつとは元来「お八つ」であり、一日を十二等分した時の八つ目、すなわち午後三時頃に食べられるものだ。

 

昼食と夕食の間の微妙な時間をつないでくれる貴重なエネルギー源である。

 

ここでおやつを、

 

「午後三時頃の小腹が空いた時に食べる、炭水化物や糖質などエネルギーになりやすい栄養を豊富に含んだ食べ物」

 

と定義すると、炭水化物が豊富なバナナはおやつになりうる。

 

しかし、それではバナナはおやつに入るのかと問えばまだ断言はできない。

 

今わかっていることは、

 

「おやつはエネルギー源になりうる」

 

というだけのことであって、

 

「エネルギー源になりうるものはおやつである」

 

ということではないからだ。

 

すなわち、エネルギー源となりうることはおやつであることの必要条件であって十分条件でない。

 

ここで少し視点を変えて、バナナがおやつではなかった場合、一体何に分類されるのかを考えてみよう。

 

この質問をした小学生の頭にあるのはおそらく「ごはん」であろう。

 

しかし、バナナはごはんではない。

 

なぜならバナナをごはんにするのはチンパンジーだけだからである。

 

我々はチンパンではないのだ。

 

ゴリラでもない。

 

人間である。

 

よって、ごはんの可能性は消えた。

 

つまり、バナナはおやつである。

 

バナナは美味しい。

 

みんな、バナナを食べよう。

 

チンパンのように。

 

(納得の行く結論が導けなかったので後日再チャレンジしたい)

ルールの批判

 

某KB某ティーエイト系列のアイドルグループのとあるメンバーが、先日行われた某選挙で結婚発表をしたことが話題になっていた。

 

某KB某ティーエイト系列は、「恋愛禁止」を絶対的なルールとして掲げていることがよく知られている。

 

にも関わらず某メンバーは、年に一度の某選挙という大イベントの場で、「恋愛」を通り越して「結婚」の発表をしたのだ。

 

これに対し、多くのファンが大ブーイング。数人の主要メンバーがInstagramTwitterで遠回しに批判をしたことも話題となった。

 

この問題について考えてみたい。

 

予め述べておくと、僕はこの某メンバーのとった行動に対して批判的だ。

 

ただし、「年頃の女の子の恋愛を禁止するなんて酷い」という意見には強く同意する。

 

どういうことかというと、僕は「ルールの批判と違反者の擁護は分けて考えるべきだ」という主張をしたいのだ。

 

たとえば、私がどこかの山奥で遭難し、山を歩いていたおじいさんに助けられて一晩泊めていただくことになったとしよう。

 

おじいさんが住むその村には、古くから

 

「あくびは神への冒涜である。よって、あくびをした者は磔にし、村人全員で石を投げて殺す」

 

という習わしがあったとする。

 

この時、たとえおじいさんが深夜まで延々と話し続ける武勇伝が死ぬほどつまらなくとも、私は必死であくびを我慢しなければならないはずだ。

 

石を投げつけられて殺されるのはどう考えても嫌だからである。

 

あるいは、あくびをすることがいかに自然で、神への冒涜になり得ない行為であるかを、村人に説く必要がある。

 

古くから伝わっている習わしであり、説得に時間がかかるであろうことは容易に想像できるが、やってみる価値はある。

 

いずれにせよ、あくびをして磔にされてから「あくびくらいしてもいいじゃん!!よくない??」などと叫んでも無駄である。

 

石は容赦なく飛んでくるはずだ。

 

もちろん、あくびは生理現象だから、あくびをした私は本来責められる理由などない。

 

しかし、その村であくびをした以上、石を投げられるのは仕方がないことなのである。

 

どれだけ馬鹿げていたとしても、あくびをしないことが村のルールだからだ。

 

どうしてもあくびがしたければ、村をこっそり抜け出すか、先述のように村人を説得するしかない。

 

つまり、既存のルールに対して異論があった時に取るべき行動は二つだ。

 

ルールを変えるために働きかけるか(この手段は往々にして痛みを伴う)、そのルールが適用されるコミュニティから抜けるか、いずれかである。

 

それをしない以上、罰を甘んじて受け入れるしかないのだ。

 

ルールとはそういうものである。

 

某ティーエイトの件の場合、「恋愛禁止」のルールを変えることは実質的に不可能だっただろうから、某メンバーはルールを破る前にグループを脱退すべきだったと僕は思うわけである。

 

ただ、それほど簡単には行かない事情があったのかも知れないし、あれだけのことをしたわけだから、少なくとも批判の矢面に立つだけの度胸はあったのだろう。

 

事実彼女はファンからの大ブーイングを「甘んじて受け入れて」いる。

 

そして一つだけ言えることは、僕は某ティーエイト系列があまり好きではないし、ぶっちゃけすごいどうでもいいし、あとラーメンが好きだということである。

 

ラーメンが食べたい。(昨日も食べた)