六駅分のエトセトラ

家からオフィスまでの六駅で綴る何らかの文

男女男男女男女

男と女って、違う生き物だと思うんですよ。僕は。

 

勘違いしないでほしいのは、「違う生き物」というのは「男は下半身で生きてる」であるとか、「女は空間把握能力が低い」とかそういうことを言いたいわけではないということです。

 

僕が言いたいのは、もっと根本的なところです。

 

まず、男って力が強いじゃないですか。

 

そりゃ、万年帰宅部銀縁眼鏡みたいな
男も中にはいますし、吉田沙保里もいますよ。世の中には。でもそういうのは例外で、一般的には、あくまで大多数は、という問題ですが、男というのは女より力が強いわけです。

 

あと、女の人って子どもができるじゃないですか。おなかに。男はできないわけですよ。これは全くもってシンプルな、生物学的な違いです。

 

(ところでそもそも男と女を二分法的にバッサリと区別すること自体あまり好ましくないのですが、便宜上ここではそうせざるを得ないのでそうしています)

 

で、僕が言いたいのは、「男と女って違う生き物だよね」ということ。そして、違いを認めた上で男女の平等を考えなきゃいけないよね、ということです。

 

何を当然のことを、と思われるかも知れないんですが、もしそこを履き違えると、例えば引っ越しバイトの採用で男だけ取ると違法だとか、トイレが男女別なのはおかしいとか、男も産休を取れるようにしようとか、そういう方向に話が進みかねないわけですよ。

 

これは極端な例ですけども、男女には(必ずしも明確ではないとは言え)明らかな身体的差異があって、その違いを尊重すべき、という考え方は常に持っていないといけないなあと思います。

 

もちろん、マッチョでもお茶は淹れられるし、赤ちゃんをあやすこともできるから、男が育休を取れないとおかしい。一方で女の人が出産する時は、大きいお腹を抱えて現状一般的な「仕事」をし続けることは不可能だから、一旦職場を離れても復帰できる仕組みづくりとか、テレワークで完結する働き方が求められる。力が要る仕事は、高いところにあるものを(男女に関わらず)背が高い人が取るのと同じように、力が強い、一般的には男の人がした方が理にかなっているわけです。

 

男女共同参画社会基本法が施行されたのは1999年。今年で18年になるらしいです。しかし、まだまだ共同参画社会には届いていないというのが現状でしょう。

 

男女の問題に関わらず、様々な面での多様性が求められる現代、我々は「平等」の意味を間違えることのないよう留意する必要があるのかも知れません。

TOMYOって書くとTOKYOみたいだね

豆苗という野菜がある。中華屋でよくニンニクと一緒に炒められている青臭いあの野菜だ。あれを今、育てている。

 

豆苗は一度食べた後に根を水に浸けておくと、また伸びてきて、再び食べることができるのだ。

 

そして僕は、ある重大なことに気付いた。

 

『これは、"永久機関"ではないか?』

 

「n回目に食べた後に根を水に浸けておくと、また伸びてきて、n+1回目にも食べることができる」という事象が任意の自然数nにおいて成り立つことは、実質的に既に証明されていると言っても過言ではない。

 

n=1において成り立つことを実証してしまった今、この豆苗は完全に"永久機関"である。

 

先人たちがあれほど苦労して発明しようとして、棒の先に鉄の玉とかくっつけたりしてなんか訳のわかんないことやってたあの"永久機関"を。

 

最終的に不可能だと結論付けた、あの"永久機関"を、スーパーの野菜売り場で割と控えめに陳列されている、長めの雑草みたいな野菜がいとも簡単に達成してしまった。あっけなさすぎてダ・ヴィンチあたりがキレないか不安である。

 

では、改めて説明しよう。

 

豆苗を買ってくる→食べる→育てる→食べる→育てる→食べる→育てる→食べる……という無限ループにうまく落とし込むことができれば、永遠に豆苗を食べ続けることができる。

 

これが豆苗永久機関である。

 

豆苗永久機関が実用化されれば、人口爆発による世界的な食糧不足が解決されるのはもちろん、豆苗で走る自動車によってエネルギー問題も解決するし、みんな幸せになるので世界中で起こる紛争とか人権問題とかも割と解決するだろう。

 

あと、炒め物に使うのでニンニクが売れると思う。

 

この素晴らしいアイデア、誰かに横取りされたらたまったものではないので、早めに公的機関とか行った方がいいのだろうか。

 

とりあえず、今週末区役所とかに行こうと思う。

なぜ「なぜそうなっているのか」を考えないのか

みんな、もっと「なぜそうなっているのか」を理解した方がいいと思う。

 

そのことを最も思わされるのが、言葉の間違いだ。世の中の人、結構言葉を間違える。

 

例えば「意外」という言葉だ。この言葉、「以外」という言葉の同音異義語なわけだが、変換間違いが非常に多い。

「意外」を「以外」と変換する人が各所で散見される。間違いではなくミスの場合もあるのだろうが、明らかに故意に変換している人も少なくない。

 

そこで「なぜそうなっているのか」の理解である。と言ってもそれほど複雑な話ではない。単に言葉の意味を考えればいいというだけの話だ。

 

つまり、「意外」とは「意の外」、すなわち「思ってもいなかった」ということを表している。一方で「以外」は、「〜を以って外」であって、「ある境界線よりも外側」ということを表しているわけである。なぜその漢字が使われているのかという仕組みを考えれば、自ずと変換間違いをすることもなくなるだろう。

 

他にも、「確率」と「確立」にも同じような傾向が見られる。それぞれなぜ「率」と「立」という漢字が含まれているのかを考えれば、間違えることはないはずなのだ。

 

変換間違いではないが「永遠と」なんかもそうだし、「せざる負えない」に至ってはお前は助詞という概念を小学校かどこかに置いてきたのかと問いただしたくなる。

 

さて、ひとまず言葉を例に出してみたが、「なぜそうなっているのか」を考えるという姿勢はあらゆる場面で役に立つ。なぜ牛丼は他の外食に比べて圧倒的に安いのか。なぜ夏は暑いのか。なぜ地下鉄は時間通りに来るのか。


世の中の様々な物事を「当たり前」として受け入れるのではなく、「なぜそうなっているのか」を考えると、世の中の見え方が変わってくる。

 

そんなの疲れるだけじゃん、と思う人は、まずはなぜ僕がこんなことをわざわざ長々と書いているのかを考えてみてほしい。(暇だからです)

ところでワイシャツにスラックスの格好は"スーツ"とは言えないのではないか

暑い。非常に暑い。ふとした瞬間にアイスクリームが食べたくなる今日この頃、季節はすっかり夏である。

 

何を隠そう、僕は暑がりだ。何の因果か無駄に活発な汗腺を生まれ持ってしまった僕は、ちょっと蒸し暑いと瞬く間に汗ダーラダラである。一番好きな季節は夏だが(テンションが上がるから)一番嫌いな季節も夏なのだ(暑いから)。

 

さて、ここで自分が着ている服に目をやると、そんな暑がりにはあまりに酷な格好である。ワイシャツにスラックスという組み合わせは、ジャケットにネクタイを締めて外回りをする営業マンには鼻で笑われそうだが、僕にとってはあまりに辛い、苦行の出で立ちだ。

 

ワイシャツの下には下着を着て、シャツはもちろんスラックスにインだ。体から発生したホットなエアーがボディーから全くシーユーアゲインしないファッキンシステムである。クレイジーホット以外の何者でもナッシングではないか。

 

なぜこんな辛い思いをしなければならないかと言えば、ビジネスの場に半袖短パンはふさわしくないとする文化があるからである。つまり、当然のことながらみんなスーツを着たくて着ているわけではないはずだ。

 

つまり、みんながみんな相手が不快に思わないように気を使って着ているのである。本当はみんな半袖短パンがいいはずだ。みんなも本当は、学生の頃に作った文化祭のクラスTシャツとか、サークルのポロシャツとかに、下はパンツで仕事したいはずである。楽だし。

 

しかし残念ながら現状の我々は、背中に無理やりつけたけど全然浸透していないあだ名がクラス全員分ズラリと羅列されたTシャツを着て仕事をするわけには行かない。「そういうものだから」である。

 

物事に対し、思考停止して「そういうものだから」と鵜呑みにする行為は嫌いだが、これに関してはとりあえずどうしようもないだろう。

 

自分一人とか、会社一つの問題ではなく、社会全体の文化の問題だからだ。僕一人でどうにかなるものではないし、今のところこの案件に関しては大胆な行動に出るほどの情熱はない。

 

今の僕がすることは、アマゾンでシャツクールをポチり、今年の夏が少しでも過ごしやすくなることを神に祈るくらいのものである。マジで頼むよ、お天道様。

週一は会いたい

今日は七夕だ。ひな祭りや節分あたりと並ぶ、日本のまあまあ大きな季節イベントの一つである。色とりどりに飾られた笹が街中に並び、人々は揃って願い事を書いた短冊を吊るす。

 

かく言う僕も銀座駅にあった笹に短冊を吊るした。あれで本当に願い事が叶うと思っている人はそういない気がするが、意志を形にして表すことに意味があるのかも知れない。

 

ところで七夕と言えば織姫と彦星である。天の川に阻まれ、年に一度しか会うことができない悲しいカップルだ。昔の人はベガとアルタイルなどというただちょっと明るいだけの星を見て、よくそんなラブストーリーを思いつくものだなと感心する。

 

で、このカップル、終わってると思うのだ。

 

だって年に一度である。一ヶ月に一度でも彼女の方がツイッターに「求められないのって辛いね😂😂」とか「私だけで悩んでるの馬鹿みたい」とか投稿しそうなものなのに、そのさらに12倍である。

 

しかも、北海道と沖縄の遠距離恋愛とかならいざ知らず、川を挟んで隣の村に住んでいるのだ、奴らは。会おうと思えばちょろっと河川敷に行けば会えるだろ。河川敷に行け。河川敷はいいぞ。トランペットとか吹いてる奴いる。

 

奴らは、要は形式的に付き合っているだけなのだ。見栄とか親への言い訳とか色んな事情はあるのだろうが、そこに愛はないのだろう。100%お互い浮気しているし、そのことをお互いわかっているに違いない。そういう冷めた関係なのだ。

 

そうでなければ一年も耐えられるわけないだろう。そもそも一年に一度しか会わない男女のことカップルって言わなくない?それ知り合いじゃない?割と仲良い方の知り合いとかじゃない?年一で帰省してくるからタイミング合わせて軽く飲む、大学のサークルで四番目くらいに仲良かったやつとかじゃない?

 

しかしそれを悪く言うことはできない。人それぞれだからだ。付き合い方も人それぞれ。とかく男女の仲は難しい。

 

まあでもお互い幸せならオールオッケー。みんな幸せが一番。

降らなくていい時

昨日、福岡でものすごい雨が降った。というか、今も降っている。行方不明になっている方が9人もいるそうだ。平生の姿とは一変し、轟音を上げて流れる濁流に飲み込まれる恐怖は想像に余りある。一刻も早く無事に見つかることを祈りたい。

 

さて、こと東京に関して言えば、今年は明らかな空梅雨である。今年の雨は、どうやら降るべき時に降らず、降らなくていい時にむやみやたらと降るようだ。

 

これを昨今の異常気象に結びつけるなら、話は少々ややこしい方向に進んで行くのだろうが、今回はそういう論旨ではない。きっとこういう「異常な気象」は、はるか太古の時代から時おりあったのだと思う。自然が生み出す気象が、常に「平常」であるはずがない。

 

問題は、雨というのは降って欲しい時に降らず、降らなくていい時に降るような気がするなあということだ。運動会、ピクニック、洗車した直後、降ってほしくない時に雨はよく降る。

 

マーフィーの法則という言葉がある。簡単に言うと、物事は最悪の方向に向かうものだ、という法則だ。洗車した直後には雨が降り、トーストを落とせばジャムを塗った面が下を向き、大事な会議がある日には電車が遅れる。起きてほしくない時ほど、嫌な出来事というのはえてして起きるものなのだ。

 

言うまでもなく、これは錯覚である。洗車した後に晴れた時は、その時の天気など覚えていない。雨が降って嫌な思いをすると強い印象と共に記憶に残り、そういう記憶が積み重なっていつもそうなっている気がしてしまうのである。人間とはなんと不合理にできている生き物なのか。

 

翻って今年の雨である。地球規模で見てみれば、ほんのちょっと水の配分を間違えてしまったくらいのことなのだろうが、ちっぽけな人間からしてみればたまったものではない。川は氾濫し、山は崩れ、電気は停まった。

 

被災者の方々にとって少しでも「印象に残らない」雨になりますように。自分には何もできないながらも、ただ祈るばかりである。

山手線は丸くない

ヨドバシカメラのCMソングに「まーるい緑の山手線♪」という歌詞があるだろう。何の違和感もなく我々はあの歌詞を受け入れているが、残念ながらあれは嘘だ。

 

山手線は全く丸くない。

 

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http://rp-tj.blogspot.jp/2015/04/yamanoteline-route-map.html?m=1

TJ@FLYINGより引用

 

上の路線図を見てもわかるように、どちらかというと細長い形をしている。楕円でもなく、水たまりのような、剥いたみかんの皮のような、何とも形容しがたい形である。大崎あたりはピョロっと盲腸みたいになってるし、大塚のあたりに至っては若干凹んでいる。

 

しかし山手線は、何かと丸いと思われがちである。それはひとえに山手線が環状線であることに由来するだろう。

 

「グルグル回ってるし、なんか丸そうじゃん?」ただそれだけのイメージで、人々は山手線が丸いと勘違いしてしまうのだ。実際はみかんの皮だというのに。

 

…とここまで書いたが、環八とか環七が丸いと思っている人はあまりいなさそうなので、この説は間違っていそうだ。

 

ヨドバシカメラのせいかも知れない。