六駅分のエトセトラ

家からオフィスまでの六駅で綴る何らかの文

ナイキのダウンシフター7

昨日、久しぶりにランニングをした。家の近くを4kmほど走った。最寄りの二駅先の地下鉄の駅がちょうど2kmほど先にあったので、そこまで行って戻ってきた形だ。走るのは楽しい。そしてしんどい。基本的に体を痛めつけるのが好きな体育会系マゾヒストなので、この場合しんどいはニアリーイコール楽しいである。

 

それはいいのだ。僕の性癖の話はいい。問題は靴である。今回、新品のランニングシューズをおろしたのだ。そしたら、クソほど靴ずれした。

 

靴ずれと言っても、もう割とガチなやつである。皮、ずる剥け。「はあ〜なるほどこれが真皮かあ〜」などと悠長なことを言っている場合ではない。まともに走れないのである。

 

ガン萎えだった。足が痛いだけでこれほど人は萎えるのか。驚くほどテンションが下がった。

 

折り返してすぐ、まともに走れなくなり、悪態をつきながら歩いて家に帰った。まともに走った距離は3kmもないだろう。シャワーを浴びる時も、靴ずれに水が沁みた。悪態をついた。(シャワー浴びながら悪態つくってなんかアメリカのアクション映画っぽいね)

 

で、豆腐と納豆と貝割れ大根刻んだやつ混ぜて醤油かけてごはんにのっけて食った。うまかった。そんでウンコして寝た。よく眠れた。

 

以上だ。

ゴリラゲイ雨

名前とは怖いものだ。

 

名前を持っていなかった「あるもの」に名前を付けると、「あるもの」のことをなんとなくわかったような気がしてしまう。そして、「あるもの」に近いもの、似たものを一まとめにして同じ名前で呼ぶようになってしまう。

 

たとえば少し前に流行った「森ガール」という言葉。「森にいそうな感じの、ナチュラル・オーガニックな雰囲気の女性」とでも言えるその言葉は、もともとそのような服装をしていたひとたちをまとめて「森ガール」にしてしまった。彼女たちが、自分は「森ガール」だと思っているかは関係ない。

 

また、近年完全に市民権を得た感のある「ゲリラ豪雨」もそうだ。「特に夏季きに多い、局地的に突然激しく降る雨」とでも言うべきその言葉は、伝統的に「夕立」と呼ばれていたものではないか。もちろん、様々な気象条件が変わってきている現代、以前は見られなかったような雨の降り方が増えていて、それらにユニークな名前を付けた方が種々の場面で便利だったという事情はあるのかも知れない。

 

しかし、夏の夕方、突然雨に降られて屋根の下に逃げ込んだ高校生が、「夕方やべー!」ではなく、「ゲリラ豪雨やべー!」と言っているのを見ると、彼らは夕立という言葉を知った上で、ゲリラ豪雨と表現しているのだろうかと、少し気がかりになったりもする。

 

よほど異常な降り方でない限り、僕は「ゲリラ豪雨」ではなく「夕立」と呼びたい。そして、これはゲリラだ、誰がどう見てもゲリラの豪雨だ、そう思った時に、満を持して「ゲリラ豪雨」を使いたい。

 

そうでもしないと、夏の生ぬるい空気を端的に表現している美しい日本語たる「夕立」は、完全な死語になってしまいそうである。

裂けるだろ

今朝のおはよう日本で、無痛分娩が増えているというトピックが扱われていた。いま現在、妊婦の20人に1人は無痛分娩を行うそうだ。

 

出産は、痛いらしい。それも、我々の想像を超えて痛いという。「鼻からスイカを出す」とも表現されるが、冷静に考えて鼻からスイカは出ないだろう。鼻の穴が裂ける。それはそれは裂けまくりである。ろくすっぽ鼻もかめないだろう。せめてリンゴくらいなら…いや、リンゴも厳しい。ブドウで頼む。巨峰はキツいのでデラウェアが望ましい。

 

幸か不幸か僕は男なので、これから先鼻からスイカを出すことはならない。男に生まれてよかった。股間にぶら下がったあいつもたまにはいい仕事をする。

 

さて、そんなに痛いわけなのだから、痛みを軽減しようという話になるのは当然である。痛いのはみんな嫌なはずだ。その昔、麻酔がなかった頃、外科手術を行う際は患者に大量の酒を飲ませて感覚を鈍らせていたらしい。患者が泣き叫ばないように噛ませる猿ぐつわなんてのもあったそうだ。

 

それも一つの文化であったはずだから、頭ごなしに野蛮だと否定することはしないが、何しろ痛そうな話である。酒を飲ませて体をナイフで切る痛みを我慢させるなど、今では考えられない行為だ。

 

なのに、鼻からスイカは出させるのである。女性、泣き叫びまくり。だって鼻からスイカ出すんだもん。猿ぐつわの一つも欲しくなる。これはある意味「野蛮」なのかも知れない。

 

ただ、無痛分娩にはリスクがあるそうだ。麻酔を体の一部のみにかけるので調整が難しく、過去には全身に麻酔がかかってしまったせいで呼吸困難に陥り母親が死亡した例もあったらしい。新生児も脳に障害が残ったというし、大変痛ましい事故である。

 

また、「腹を痛めて産んだ子」とも言うし(これは少し意味が違うかも知れないが)、出産で痛みを感じることで生まれてきた子供に対する愛情が深まるという話もある。わからなくもないが、他人に強制するほどのものでもないだろう。自分の足で登っても、ロープウェイを使って登っても、高尾山の山頂から眺める景色は綺麗である。(高尾山に最近人が多すぎる件についてはまた別の機会に言及しよう)

 

結論としては、「もし僕が子供を産むなら絶対無痛分娩がいい、だって鼻からスイカを出したくないもん」ということに落ち着くだろうか。

 

ところで僕はスイカが大好物である。

 

スイカが食べたい。

シカクいヘヤをマルく掃く

「シカクいアタマをマルくする」という電車広告がある。日能研の広告で、色々な有名中学校の入試問題を掲載しているものだ。小学生が解くものだと侮るなかれ、これがなかなかの難問揃いで、小一時間悩まされることも少なくない。

 

この「シカクいアタマをマルくする」という広告の一番の特徴は、答えがないことである。

 

もちろん学校側は模範解答を用意しているわけで、日能研も独自の解答を作ってはいるのだろう。

 

しかし、それを広告に掲載することはしない。これは日能研の「入試問題には明確な答えが用意されているが、世の中にある問題のほとんどには答えがない。将来を担う子どもたちに、答えのない問題を考えるという経験の中で問題解決能力を養ってもらいたい」という思想が現れているのだ。

 

そう思っていたのだが。

 

今、すぐそこに貼ってある広告を見ると、「問題の解答・解説や見どころ、出題意図やインタビューを公式ウェブサイトで!」

 

こう書いてある。

 

僕の記憶が正しければ、少し前までは「シカクいアタマをマルくする」には解答解説を掲載したウェブサイトに誘導するような記載はなかったはずだ。

 

そこが潔くて好きだったのである。

 

確かにこれを書いたら、答えが気になって思わず公式ウェブサイトにアクセスしてしまうかもしれない。

 

特に僕のように、しょうもないこともはっきりさせておかないと気持ちが悪いタイプの人間に対しては、有効な施策なのだろう。(まあ、僕に関しては塾に通わせる子供がいるわけでもないのでただ答えを見て終わるが)

 

しかし、そういう問題ではないのだ。答えを一切載せないところに、この広告の良さが、日能研の思想があったのだ。僕はそう思っていた。

 

非常に残念である。

 

まあ、勘違いかも知れないけど。

 

今回のウミガメの問題も、悔しいので答えは見ません。わかんないけど。

森のくまさん

ヒゲは一種の罰ゲームである。

 

何を隠そう、僕はヒゲが濃い。大変に濃い。朝剃っても、夕方どころか昼過ぎには青くなっている。というか、そもそも剃った直後に既に青い。そのくらい濃い。

 

言うまでもなく、ヒゲの濃さには個人差があるわけで、僕はかなり濃い部類に入る。薄い人は、人によっては全く剃らなくても問題ないという人もいる。羨ましい限りである。

 

ヒゲが濃くていやだという話をすると、「薄い人は伸ばすっていう選択肢ないけど、濃い人は両方の選択肢あっていいじゃん」と言われることがある。

 

確かに、剃らなくてもいいほどヒゲが薄い人は、ヒゲを伸ばすという選択肢を取れない。それは認めよう。

 

しかし、そのメリットをはるかに上回ってヒゲを剃るのは面倒だ。

 

そもそも、ヒゲを伸ばしてなんかイイ感じになるのは、もともと口ひげやあごひげが局地的に生える人である。

 

僕のように、ヒゲが顔の下半分一面に生え、「それもはやあごじゃなくてのどじゃない??」みたいなところにまで生えるし、ルパン三世もかくやと言うほどのもみあげ-あごひげ共同体が生まれてしまうような人間は、そううまくは行かないのだ。

 

ヒゲを伸ばしたところで伸ばさない部分は結局剃らなければいけないし、それはそれで手入れが大変だし、かと言って全部伸ばしたら森のくまさんかな??はちみつあげようか??って感じになるし、なんかもうめんどいのである。

 

森のくまさんが許されるなら、僕は森のくまさんになりたい。

 

そのくらい毎朝の髭剃りは面倒なのだ。

 

やはり、ヒゲは罰ゲームである。

 

ただ、髭剃りなんかよりよっぽど化粧の方がめんどくさそうなので、その理屈で行くと女性は罰ゲームということになる。

 

ヒゲを剃らなくても、化粧をしなくてもいい文化圏に身を投じる必要がありそうだ。(イスラム圏かな?)

東の国から

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こんなもんだろう。夏の天気というのは。

 

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こんな天気は夏とは呼ばないのである。

 

八月に入ってから、雨が多い。週間予報には傘マークが並び、洗濯物はちっとも乾かない。涼しいのはありがたいが、これだけ冷夏だときっと農作物にも影響が出ることだろう。おこめができないのは悲しい。日本人はおこめを食べないと生きて行けない種族なのだ。おこめは大事。みんなもっとおこめ食べようよ。おこめおいしいよ?

 

話を戻そう。

 

バカみたいに暑いのは嫌だが、雨ばかりでじめじめするのも嫌なのだ。人間とはかくもわがままな生き物である。

 

つまりは、もっと湿度が低くて、風が心地よく、夜になると半袖シャツが少し肌寒いくらいの…そう、言ってみれば、北海道くらいの。そのくらいの気候が理想的だ。

 

北海道は良かったなあ。

 

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お盆のキモチ

連休明けである。


10日間連休を取っていた。久しぶりの出勤は、お盆休み真っ只中だ。電車はガラガラ、きっとオフィスもガラガラだ。


まあ、お盆くらい多少なりとも休むのが、人間らしさというものだろう。こんなことを言うと世の黒い企業にお勤めの方々に怒られそうだが…。


ところで、お盆に作るナスとキュウリのアレ、ちょっと気になる点がある。


アレは馬と牛を表していて、ご先祖様がこちらに帰ってくる時は足の速い馬を使い、あちらへ戻る時は足の遅い牛を使うことで、少しでも長くこちら側にとどまっていてほしい、という願いが込められているという。


しかし、牛はまだしも、馬はそこにいちゃダメだろう。だって向こうから乗ってくるんだから。向こうの世界に派遣しないと。二匹仲良く並んでたらダメだろう。そこが若干気になる。


しかし書きながら思ったが、冷静に考えてみるとそんなに重要なことでもない気がしてきた。


そもそも仏壇に供えたお菓子とか普通にちょっと供えたらすぐモッサモサ食ってる時点で、なんかその辺はマジ形式だけでルーズな感じなんだろう。気持ちがあればいい的なやつである。


今夏、僕は「お盆に帰る」と表現するべき行動をしなかった。祖父母がみな亡くなってしまっているので、両親は実家に帰らなかったし、僕自身も実家が近いので今回あえて帰る必要を感じなかったからである。


薄情者、という声もあるかも知れないがオーケーだ。お盆は、気持ちがあればいい。

 

一週早く休みを取ったので、今週も出勤だが、気持ちは休暇を取ろう。ガラガラの通勤電車でペンを置く。(そもそも持っていないが)