六駅分のエトセトラ

家からオフィスまでの六駅で綴る何らかの文

降らなくていい時

昨日、福岡でものすごい雨が降った。というか、今も降っている。行方不明になっている方が9人もいるそうだ。平生の姿とは一変し、轟音を上げて流れる濁流に飲み込まれる恐怖は想像に余りある。一刻も早く無事に見つかることを祈りたい。

 

さて、こと東京に関して言えば、今年は明らかな空梅雨である。今年の雨は、どうやら降るべき時に降らず、降らなくていい時にむやみやたらと降るようだ。

 

これを昨今の異常気象に結びつけるなら、話は少々ややこしい方向に進んで行くのだろうが、今回はそういう論旨ではない。きっとこういう「異常な気象」は、はるか太古の時代から時おりあったのだと思う。自然が生み出す気象が、常に「平常」であるはずがない。

 

問題は、雨というのは降って欲しい時に降らず、降らなくていい時に降るような気がするなあということだ。運動会、ピクニック、洗車した直後、降ってほしくない時に雨はよく降る。

 

マーフィーの法則という言葉がある。簡単に言うと、物事は最悪の方向に向かうものだ、という法則だ。洗車した直後には雨が降り、トーストを落とせばジャムを塗った面が下を向き、大事な会議がある日には電車が遅れる。起きてほしくない時ほど、嫌な出来事というのはえてして起きるものなのだ。

 

言うまでもなく、これは錯覚である。洗車した後に晴れた時は、その時の天気など覚えていない。雨が降って嫌な思いをすると強い印象と共に記憶に残り、そういう記憶が積み重なっていつもそうなっている気がしてしまうのである。人間とはなんと不合理にできている生き物なのか。

 

翻って今年の雨である。地球規模で見てみれば、ほんのちょっと水の配分を間違えてしまったくらいのことなのだろうが、ちっぽけな人間からしてみればたまったものではない。川は氾濫し、山は崩れ、電気は停まった。

 

被災者の方々にとって少しでも「印象に残らない」雨になりますように。自分には何もできないながらも、ただ祈るばかりである。

山手線は丸くない

ヨドバシカメラのCMソングに「まーるい緑の山手線♪」という歌詞があるだろう。何の違和感もなく我々はあの歌詞を受け入れているが、残念ながらあれは嘘だ。

 

山手線は全く丸くない。

 

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http://rp-tj.blogspot.jp/2015/04/yamanoteline-route-map.html?m=1

TJ@FLYINGより引用

 

上の路線図を見てもわかるように、どちらかというと細長い形をしている。楕円でもなく、水たまりのような、剥いたみかんの皮のような、何とも形容しがたい形である。大崎あたりはピョロっと盲腸みたいになってるし、大塚のあたりに至っては若干凹んでいる。

 

しかし山手線は、何かと丸いと思われがちである。それはひとえに山手線が環状線であることに由来するだろう。

 

「グルグル回ってるし、なんか丸そうじゃん?」ただそれだけのイメージで、人々は山手線が丸いと勘違いしてしまうのだ。実際はみかんの皮だというのに。

 

…とここまで書いたが、環八とか環七が丸いと思っている人はあまりいなさそうなので、この説は間違っていそうだ。

 

ヨドバシカメラのせいかも知れない。

好きっ好き♡

決められたルールを自分勝手に無理やり読み変えて規律に反した行動を取り、後でそれを指摘されると「ルールにあったんだからおれは間違っていない、何がおかしいのか」と開き直る奴、いるじゃないですか。

 

まあ世の中の一般的な話じゃなくて、一休さんの話なんですけど。中でも特に橋のエピソードの話です。

 

だって橋のすぐ横に「このはしわたるべからず」って書いてあるんですよ。どう考えても「はし」って「橋」のことじゃないですか。それを勝手に「端」と理解して「端を渡るなと書いてあったから真ん中を通って来た」ってね、もうお前はアホかと。アホだろ。お前。クソ坊主。

 

そりゃね、漢字で書けばもともとあり得なかったことだから、ひらがなで書いた側にも問題がなくはないですよ。でもね、そんなんごくわずかですよ。ひらがなで書けばわかるじゃないですか普通。そんな屁理屈こねる奴がいると思わないじゃないですか。

 

同じ一休さんでもね、虎の絵の方は頑張ってると思いますよ。だってそもそも絵の中の虎なんて捕まえられるわけないじゃないですか。最初から要求が無理なんですよ。ただの意地悪。

 

それに対して、「では私が虎を捕まえるので、あなたが虎をこっちまでおびき寄せて下さい」ってとんちが効いていていいじゃないですか。無理難題を押し付けたオッサンにやり返す手法としては非常に小気味良くて好感が持てる。とんちって本来そういうものじゃないんですか。

 

一方で橋ですよ。これはね、普通にダメじゃないですか。多分なんか老朽化とかそういう理由で渡っちゃダメなんですよ。知らんけど。正当な理由があるわけじゃないですか。

 

それに対して「端じゃなければいいと思った」ってお前、それが許されると思ってるのかと。アホかと。なーにが「好き好き好き好き好きっ好き♡」だよ。一生こめかみグリグリしてろ。

 

まあ、問題は世の中に「端じゃなければいいんでしょ?」みたいなことを言ってくる輩が少なからず存在するということなんですが、僕の周りにはあまりいないので今回は割愛します。

下界の車窓から

都心で地下鉄に乗るという行為は、ほぼワープだと思う。地上を走る電車と違って、車窓から得られる情報がないからだ。自分がどこに、どんなところにいるのかがわからないから、途中経過をすっ飛ばし、乗った場所と降りた場所だけが意識の中に存在する。

 

ある地点で地下に降りて、乗り物に乗り、一定の時間が経過した後にまたある地点で地上に上ると、場所がガラリと変わっている。まるで魔法のような乗り物である。

 

地上を走る電車なら、そういうことはない。この駅と駅の間は閑静な住宅街で、この駅にはレトロな商店街があって。この駅にはオフィスビルが林立していて、この駅とこの駅の間で一瞬見える公園の雰囲気が好きで。あ、あそこのビル、工事中だったけど完成したんだ。

 

そんな感じで、車窓というのは、なんだかんだ結構楽しいものだ。そう考えると、トンネルの中、真っ暗闇に蛍光灯が等間隔に並べられた地下鉄の車窓は、あまりにももの寂しい。

 

誰か、地下鉄の車窓を変えてくれないだろうか。デジタルサイネージみたいな感じで、高速で動いていても認識できるような、なんらかの技術で、地下鉄の車窓に楽しみを作ってくれる人はいないだろうか。

 

広告の形は恐ろしいほどのスピードで変わり続けているし、そのくらいのことができても良いのではないだろうか。

 

…まあ、地下鉄の決して短くない歴史の中で、誰もやっていないところを見ると、コストが得られる利益に見合わないのだろう。新しいビジネスとは、多分往々にしてそういうものだ。

 

忸怩たる思いにくちびるを噛み締めながら、今日も暗く味気ない車窓を眺めてオフィスへと向かうのだった。

梅雨に歌えば

朝からシトシト雨が降り、はっきりしないぐずついた天気だ。ようやく梅雨本番、といった様相である。

 

今年の梅雨は、あまりに雨が降らないせいで気象庁が一度出した梅雨入り宣言を撤回するという異例の梅雨だった。梅雨というのは、洗濯物は乾かないわ、コピー機は詰まるわ、週末のお出かけも億劫になるわでろくなことがないものだが、いざ空梅雨が来てみるとなんとなく落ち着かないもので、人間というのは勝手な生き物であることだなあと思わされる。

 

そんな嬉しいような鬱陶しいような雨だが、あの木はきっと文句なしに喜んでいることだろう。あじさいだ。青にピンクに紫に、色とりどりに咲き誇るあじさいは、雨に濡れてこそ本来の美しさを発揮する。きっと連日の雨に、全身の葉緑体をざわつかせて喜んでいることだろう。

 

さてこの美しいあじさいだが、実は毒があるらしい。それもまあまあ強めの毒らしく、毎年料理の飾り付けに葉を使ったせいで食中毒になるケースが報告されるそうだ。庭木にもよく使われる上に、葉の大きさも手頃で見た目が良いので、小洒落た料理にスッと置けば、食卓にちょっとした華を添えてくれそうだが絶対ダメである。お腹壊す。お腹壊したくなくない?

 

また、あじさいは土壌のpHによって花の色が変わるという。酸性だと赤っぽく、アルカリ性だと青っぽくなるらしい。色が様々に変わることから、「七変化」の異名を持つそうだ。他人のものは優れて見えてしまうということわざで「隣の花は赤い」と言うが、隣の家の庭にサンポールを撒きまくればもっと赤くなることだろう。羨ましいなあ。

 

というわけで、雨に濡れて美しく咲くあじさいという花、なかなかどうしてくせ者である。だいたい我々があじさいの花びらだと思っている部分はいわゆる"がく"であって花びらではなかったりする。本当の花は真ん中にあるちっちゃいつぶつぶだ。アゲハチョウの幼虫の目がめっちゃちっちゃいのと似たものを感じる。キャタピーの目の位置、あれ間違ってるよね。

 

まあ、そもそも雨が好きな時点で変わっているので、あじさいが色々くせ者なのは仕方がないことなのかも知れない。と思ったけど普通植物って雨好きなんじゃない?あじさいって本当に雨好きなの?雨少ないところだと育たないの?

 

わかんないけど早く各地のダムに水が溜まるといいなあ。

昔の人あざ〜す

飽食の時代と言われる。食事をすることはごくごく当たり前の行為で、そこにありがたみを感じる人は少ない。食べ物に対する意識が低いから、大量に食べ残し、バッサバッサと捨てるのが現代人だ。

 

一方昔の人は大変だった。昭和や大正の時代はもちろんそうだが、江戸時代とか、平安時代、あるいはもっと昔の時代に生きていた人々というのは、その日その日に食べる物すら十分に確保できていない、という生活を長年続けてきたのだと思う。

 

なんだか説教くさくなってしまったが、食べ物を捨てる人間に説教がしたいわけでは決してない。(個人レベルで意味もなく食べ物を捨てまくる人間には説教をしたいが、別の機会にしよう)僕が今回言いたいのは、昔の人、いくらおなかへってるとは言っても何でもかんでも食べ過ぎなんじゃないのということだ。

 

たとえばよく言われるのは納豆である。改めてよく考えてほしい。納豆、腐った豆である。あれ完全に腐った豆だ。うまいけど。うまいけど腐った豆だろうあれは。

 

こう言うと、「発酵と腐敗を混同するな殺すぞ」とか言うやつが現れそうだが、その指摘は正しいようで正しくない。発酵と腐敗という現象はいずれも微生物が繁殖している点で同じであり、その現象が人間にとって有用か否かで区別をしている極めて曖昧なものだからだ。

 

たとえば、冷蔵庫に二ヶ月入れっぱなしにしたらドロドロになって酸っぱい臭いを発している牛乳があったとして、これはおそらく乳酸菌が支配している「有用な」発酵なのだが、先ほどの指摘をしてきたアホは果たしてこれを飲めるだろうか。飲めないならばその指摘に意味はない。

 

結局、昔の人はあまりに空腹だったために果敢にも「腐った豆」を食べて、意外と美味しかったから我々は今も食べているのだと思うのだ。なお、さっきの牛乳は言わずもがなヨーグルトである。

 

さらに、エビやカニもすごい。冷静に眺めたら、あいつらほぼエイリアンである。手足の造形とか、信じられないキモさだ。あんなもんほぼGと一緒である。甲殻類なんかルックス的にはほとんど昆虫だ。見た目はクソまずいだろう、奴らは。

 

しかし、いざ食らってみるとなかなかどうして美味である。甲羅にたっぷり収まったカニミソに身をほぐして和えたやつなんか最高だろう。ああ、かに道楽行きたい。行ったことないけど。

 

あとはフグである。「こないだあいつあそこ取り除いて食ったけど死んだから、今回はここを取り除いて食ってみよう!!」みたいなことをきっと何千人何万人と繰り返した結果が今のフグなのだろう。クレイジー以外の何者でもない。昔の人、いくらなんでもチャレンジ精神が旺盛すぎる。命を大切にしない奴なんか大っ嫌いだ。でもフグうまいから許す。好き。

 

他にもこんにゃくとかブルーチーズとかクレイジーな食べ物はいくらでもあるが、総じて言えることは昔の人なんでも食べ過ぎだし、なんでも食べてくれてありがとうということである。昔の人がめちゃめちゃおなかへってたことと、それ故にめちゃめちゃチャレンジ精神に溢れていたことによっていまの多様な食文化があるのだ。

 

昔の人、サンキューな!

でもさすがにあの小松菜は捨てたわ!ちりめん細工みたいになってたし!

じゃ、またな!

菌の名は。

ついこの間、と言ってももう結構前だった気がするが、『君の名は。』という映画が流行った。

 

流行り物をバカにしながらもなんだかんだちょっと気になってしまったりするのが性分なもので、僕も大学の同期と観に行ったわけなのだが、高校生の男女が入れ替わってしまうという使い古された筋書きではありながら、美しい映像と爽やかな音楽とが非常に印象的な作品だった。

 

今日したいのは『君の名は。』の評価でもなければ批判でもなく、三葉とバイトの先輩(名前忘れた)のどちらが好みかという話でもない(ちなみに僕はバイトの先輩だが)。

 

RADWIMPSによる主題歌「前前前世」に付随する話題である。君の名は、ほぼ全く関係ない。新海監督ごめんなさい。なんなら前前前世もあんまり関係ない。

本題に入ろう。

 

「私、前世はウサギちゃんだと思うのぉ〜♡」みたいなことを言うアホがたまにいるだろう。アホが。

 

「田中は絶対前世百姓でしょwww」みたいな話もたまにある。なんかパッとしない奴をバカにする時とか。悪口ダメだよ。

 

それ、絶対違うと思うんですよ。

 

そもそも前世という概念は、仏教の輪廻転生の考え方に基づくものだ。生き物は死ぬと、また別の生き物に生まれ変わる。

 

今の姿が「今世」、次が「来世」。そして前の姿が「前世」というわけだ。(おそらく前世、来世は世界のことであって姿のことではないがちゃんと調べるのもめんどくさいのでとりあえずそういうことにさせてもらう)

 

そして、人間として今の姿に生まれ変わる前には、何の生き物であったかはわからない。しかし、ある程度性格や要素を引き継ぐので、例えばウサギのアホで言えば、今世でかわいらしい←(笑)人は前世もウサギのようなかわいらしい生き物であった可能性が高いのではないかというのが彼女の主張である。

 

これ、絶対違うと思うのだ。

 

どういうことかと言うと、可能性としてはほぼ確実に微生物である。なぜなら数が多すぎるからだ。全世界に存在する微生物の数に比べれば、70億人しかいないヒトの数など、取るに足らないクソほど些少な存在である。ブルゾンちえみもびっくりだ。

 

ということで、多分あのアホも前世は多分大腸菌、ひいてはEscherichia coliとかだし、田中は多分乳酸菌系のなんかである。ほら、田中ヨーグルト好きだし。

 

輪廻転生とかいう制度、微生物という概念がなかった時代の考え方である以上仕方ないことではあるが、余りにもヒトに生まれる確率が低すぎるガチャである。さすがにユーザーも運営にブチギレで詫び石を要求するだろう。

 

来世はなるべく大きな微生物がいいなあ。あと、できれば昆虫がいい。

 

そして、「君の前前前世から僕は君を探し続け」ては絶対ない。なぜなら微生物だから。脳とかさ、ないから。感情とかないから。わかる?アンダスタン?

 

あとおれはサンボマスターの方が好きです。