土壇場cancel
飲み会の幹事をやることが多い。
と言っても、何か特別なテクニックを持ち合わせているわけではなく、普通に適当なお店を探して電話をかけるだけだ。せいぜいホットペッパーでポイントが貯まるくらいのものである。
幹事をやると、あるものに対する恨みが増す。
ドタキャンだ。
特に、当日ドタキャンする者に関しては目も当てられない。
誤解のないよう言っておくと、体調不良とか、身内の不幸とか、のっぴきならない事情でドタキャンするのは仕方ない。当日の朝起きたら熱が40度あったなんてこともあるだろう。
そうでない理由、「会の存在忘れて別の予定入れちゃってた」とか、「なんとなく今日はパス」とか、そういうドタキャンはマジで法で取り締まるべきなのではないかとすら思っている。
そもそも、キャンセル料金が発生するのだ。当日ドタキャンは。
後日払ってくれるならいい。振り込んでくれればさらにいい。しかし、キャンセル料すら払わない者に関してはもはや縁を切る以外の選択肢がない。
それに、お金の問題だけではないのだ。
一人が欠席することによって、会全体に与える影響を考えろということだ。少人数の合コンなんかだと最悪の一言である。誰か代理でも派遣してこいと、そう言いたい。
…とまあ、ドタキャンに対する恨みつらみを書き連ねて来たわけだが、かく言う僕もドタキャンをしてしまったことはある。
当日の朝に体調をアホみたいに壊した時とか、完全に予定がすっぽ抜けてダブルブッキングしてしまった時とか。
当然平身低頭、平謝りである。
ドタキャンをした者に課された義務、それはただ一つ、平謝りすることである。
この世からドタキャンがなくなる日は来るのだろうか。
かき氷は食べた。
夏は特殊な季節だと思う。他の季節に比べて、あまりにも明確にブランディングされているのだ。
例えば、夏だな!!と感じさせる風物詩は多い。スイカにかき氷、流しそうめん、ラムネ。打ち上げ花火、海水浴、キャンプに肝試し。
毎年これはやっておかないと夏が始まらない気がしてくるし、これらを食べたり、やっている時の、「あーーー!!夏だなーーーーー!!!!!」感には相当なものがある。
一方で冬はどうだろう。せいぜい鍋くらいのものである。雪だるまはまごう事なき冬の風物詩だろうが、雪だるまを作っても「あー!冬だなーーー!!おれは今冬をやっている!!!!!!」とはならないだろう。
これは春や秋にも言えることだと思う。夏うたの多さに比べて、秋うたの少なさたるや。「小さい秋見つけた」と「秋桜」くらいしか思いつかないではないか。
このテンションの差は何なのだろう。同じ季節なのに、夏はいささか優遇されすぎではないだろうか。
ということで、なぜ夏はこんな一人勝ち状態にあるのか。それは結局のところ、暑いからだと思う。
基本的に、動物は低音に弱い。暖かいと行動が活発になり、寒いと不活発になるのは自然の摂理だ。真冬のクソ寒い時に外に飛び出して「冬だーーーーー!!!!!!」と騒ぐことはしないだろう。コタツに潜ってみかんを食べるのが冬なのである。
一方、夏はこうだ。はるか遠くにすっと線を引いたような水平線から、もくもく湧き立つ入道雲、そして太陽に照らされて白く光る砂浜を見た時は、ビーサンを脱ぎ捨てて「海だーーーーー!!!!!!」と叫びながら走り出すのが人間というものである。
まあ、結局のところ、夏は暑いので、血圧が上がり、何となくテンションが上がる。そういうことなのだと思う。人間は、意外とシンプルな生き物であった。
今年はまだ海に行っていない。
すげー押すやん
まあまあの人数が降りる大きな駅で降りる直前にやたらとグイグイ押してくるオッサンは何なのだ。
なぜ降りる準備を始めるタイミングをオッサンに合わせねばならんのだ。
ちょっと待ちなさい。落ち着け。
あまり人が降りない駅ならまだわかる。満員電車においては、ポジション取りに注意しないと降り損ねるおそれがある。(それでも到着してからポジション取りに行けよとは思うが)
しかし、オッサンがグイグイ押してくるのは、まあまあの人数が降りる大きな駅である。
そんなに頑張らなくても絶対降りられる。無理すんなオッサン。大丈夫。俺がついてる。オッサンも、ちゃんと降りられるから。
そんな体当たりとか肘打ちとかしなくていいから。日本人、だいたい普通にやさしいから。落ち着けって、オッサン。(ところでこういう迷惑な人にはオバサンも多い)
まあ、僕の乗っている電車は朝もそこまで混まないので、そういうオッサンにイライラさせられることもそれほどないんですけどね。
まあ何が悪いって満員電車ですね。
小池都知事には早く満員電車をなくす施策を打ち出してほしいものです。
シャア専用車
世間で、性の多様性が叫ばれるようになって久しい。
渋谷区が同性婚を制度的に可能にする、というニュースは、もう随分前のことのような気がする。世界的に多様な性を表すレインボーのイメージカラーは、日本でも特に若い世代にはかなり定着したような実感があるし、英語圏では、三人称単数にheでもsheでもなくtheyを使おうという動きもあるそうだ。
また、先日東京都が行った2020年のオリンピックまでに「LGBT用トイレ」を整備するという発表は物議を醸した。この施策の良し悪しに対する議論はひとまず置いておいて、性の多様性に対する人々の意識が高まってきているのは確かだ。
そこでふと電車を見てみると、女性専用車である。「女性専用」という響きがもうだいぶアレだ。女性専用車、冷静に考えて時代を逆行しまくりではないか。
そもそもなぜ女性専用車なるものが生まれたのかと言えば、痴漢がいるからである。満員電車の混乱に乗じて、女性の体を触る人間がいるために、そういう輩を排除した車両を作って、女性が安心して電車に乗れるようにしようというわけだ。
なぜ男性専用車はないのか、という疑問は残るが、男女比率の問題とかなんか色々あるのだろう。とりあえず、理屈は通っていると思う。
そもそも僕は女性専用車の存在にそこまで大きな疑問を抱いているわけではない。僕が使っている地下鉄には女性専用車はないし、女性専用車はガラガラなのに隣の車両はギュウギュウなんて状況に出くわしたこともない。
「男」である自分にはわからない悩みや恐怖の形を、女性専用車を必要としている人たちは持っているのだろう。自分はそう納得していて、特に不満を感じることはない。
ただ、この世間の流れの中、女性専用車に対する風当たりはますます強まっていくものと予想される。各鉄道会社も、何も対処せずに今まで通り女性専用車を運用するわけにも行かないと思うのだ。
では、どうすればいいのだろうか。
僕の提案は、満員電車がなくなって、痴漢というものがそもそも発生しないくらいゆとりがあって生産性の高い通勤環境を作ることである。
それは鉄道会社がなんとかできる問題ではない。
満員電車はクソ。(結論になっていない)(結論になってる日の方が少ない)
無関係
人々、関心がなさすぎると思うんですよね。物事に対して。
例えば街中を歩いてると、政治家が演説してたりするじゃないですか。人々、基本的に完全にスルーしますよね。何の興味も示さない。何をそんなに急ぐのか、見向きもせずスタスタと歩いて行く。
あと、ホームレスの人が、道ばたに寝てるじゃないですか。人々、全く無関心ですよね。石ころか何かだと思っているのか、存在しないものかのように扱っている。
まあ気持ちはわかりますよ。自分には関係ないからどうでもいいんですよね。わかる。でも、多分政治家の演説もホームレスも、自分に関係あると思うんですよね。
どの政治家に、どの党に票を投じるかって、当たり前だけどめちゃくちゃ重要なわけですよ。政治が変わるわけなんで。陳腐な表現ですが、一人一人の小さな力が集まって大きな力になるわけで。その一翼を担っていることの自覚があれば、その選択の参考にするべく、演説にももう少し興味を持ってしかるべきだと思うわけですよ。
ホームレスはちょっと方向性が違いますけどね。別に同情しろ、施しをしろと言っているわけではないんです。ただ、あの人たちは何らかの事情があって、今ああいう風に暮らしている、れっきとした一人の人間なわけで、ホームレスの人が道ばたに寝ていたら、「道ばたに寝ている人がいるな」と思わないとおかしいと思うんですよ。当たり前だろと思われるかも知れませんが、そう思ってすらいないように見受けられる人の多いこと。
…例があまりよくなかったかも知れません。必ずしも政治的な話に持って行く必要はないんです。ただ、人々が自分の身の回りのものごとにもっと興味関心を持って、意見を発信し、行動に移すことができれば、世の中はもっと良くなるんじゃないかなあと思う次第なんですよね。
僕は何に対しても何らかの意見を持つようにしているつもりです。例えば、ラーメンは、美味しい。これは僕の、とても強い意見の一つです。
立ち食いそば道
立ち食いそばには、わびさびの趣があると思う。
かの有名な茶人、千利休は、茶の湯を楽しむ部屋である茶室をあえて小さく作ることで、武士達の権力の象徴である大きな刀を、茶室の中に持ち込めないようにした。そのことにより、あらゆる肩書きをそぎ落とした、純然たる一人の人間として、茶の湯と向き合うことを仕向けたのである。
立ち食いそばも同じである。属す会社の大小や、年次の高低、収入の多寡は立ち食いそば屋においては意味のないものである。全てのおっさんが、狭い店内で皆平等に、あの本当にそば粉が練りこまれているのか甚だ怪しい、妙に白っぽい安いそばをすする。
あの資料の納期だとか、あのプレゼンの準備だとか、そんなものよりも、今は目の前のそばに七味を何シェイクかけるかという問題の方がよほど大事なのだ。
仕事に関わるあれやこれやから一時的に解放されて、立ったままという決してお行儀が良いとは言い難い状態で、全てのおっさんが等しくそばをすするのである。
純然たる一人の人間として、そばに向き合う。その根底に流れるのは、まさに茶道の精神ではなかったか。
また、立ち食いそばは、その店構えも実に趣深い。
繁華街のターミナル駅、電車の通過する音が喧しいガード下に、埋もれるように佇む立ち食いそば。
田舎のだだっ広い駅のホームに、ぽつんと置いて行かれたように設えられた、5人もそばをすすろうものなら肩がぶつかり合ってしまいそうな立ち食いそば。
オフィスビルが林立する都会の街、再開発が進む近代的な街並みにそっと昭和レトロな雰囲気を添える、地上げ反対系の立ち食いそば。
そこにはまさにわびさびの趣を見出すことができるだろう。
化学調味料を前面に押し出した、安いだしを飲み干して、下膳口に盆を置く時、今度からこう言うことにしよう。「結構なお点前でした」と。
※なぜか白紙で公開されてしまっていたので投稿し直しました。なぜ。
若親や子供撫でずにスマホ撫で
子どもの泣き声というのは、聞いていて快いものではない。単純にうるさいというだけではない、表現しがたい不快さを持った音だと思う。
そもそも子どもの泣くという行為は、周りの大人に助けを求めるということだ。
そう考えると、この気にせずにはいられない不快な音も、非常によくできたものだと感心すらしてしまう。
何にせよ、僕は子どもの泣き声が好きではない。
こういうことを言うと、ああ、子どもが嫌いなんだね、そういうことを言うとモテないよ、だから「結婚できなさそうだね」って言われるんだよ、などと批判されそうだが、決して子どもが嫌いなわけではないのだ。
先述の通り、子どもの泣き声は不快に感じられてしかるべきものである。そして世の中にこれだけ多くの人間がいる以上、生まれて間もない子どもがいるのは当然のことだ。
満員電車や飲食店の隣の席で、子どもが突然金切り声を上げることがあるのは当たり前のことなのだ。
雨が降るのと同じようなものである。喜ぶ人は少ないが、当然のことだと諦めて、対策を取る。
雨が降ったら、傘をさすだろう。
僕が批判したいのは、傘をささない、すなわち対策を取らない人間である。自分の子どもが泣いたら、なだめすかし、あやすのが親というものではないのか。スマホの画面を撫でるより、我が子の頭を撫でるべきではないのか。自分の子どもが、これほど力いっぱい助けを求めているというのに。
そういう親を見ると、僕は泣き声の不快さを忘れるほど、言いようもなく不快になるのである。
ただ、何事もやってみないとわからないもので、もしかすると子育ては僕が想像する以上に苦しく辛いものであり、いちいち子どもに構っていると精神をやられてしまうと思って、自己防衛として無視しているのかも知れないとも思う。
子どもを放っておいてパズドラに興じるのは、彼ら、彼女らなりのSOSなのだろうか。
答えは、子どもを持たないとわからない。
そのためには、まずは彼女を作らなければいけない。
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