今日はこっちに行ってみよう
昨日は眠かったので8時間半寝た。22時半から7時。やはりいっぱい寝ると幸福度が高い。本当は毎日8時間寝たい。眠いから。基本的にいつも眠いから。
で、高い幸福度に包まれてフンフン駅前を歩いてたら、JKの会話が聞こえてきた。
「こっちから行ったことある?」
「ない!行ってみよ!」
どうやら、駅から学校に行くまでの道の話のようである。いつもと違う道を選ぶというだけのことが、彼女たちにとっては非日常であり、楽しむべき特別なイベントなのだ。
微笑ましいと同時に、なんだかちょっと切なくなった。大人になった自分は、「いつもと違う道を選ぶ」という行為を、単なる遠回り、時間の無駄と思わず、楽しむべき特別なイベントとして捉えられるだろうか。そんな感性を、果たして僕は持っているだろうか。
持ってた。
考えてみると昨日、特に意味もなく駅から家までいつもと違う道を通って帰っていた。見たことのないスーパー(若干高い)や、街の氷屋さん(おばあちゃんちのにおいがする)。いつもと違う道を通ることは、僕にとってまだまだ楽しむべきイベントであったし、きっとこの先もずっとそうあり続けるだろう。
僕はまだまだ子供で、大人への道は遠いし、大人ももっと小さなことを楽しんでいいと思う。
「老害」って言葉も嫌い
若さとは相対的なものである。
若さをはかる絶対的なものさしは存在しない。
我々はそのことを常に自覚しておくべきである。
小学一年生をお世話する六年生は「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と言われるし、
4年生の女子大生は冗談めかして自分のことを「ババア」と卑下する。
「アラサー」という言葉の与える印象が年代ごとに全く異なることは容易に想像できるし、
高齢化が進んだ地方のとある村では、還暦を迎えたばかりの人は「若手」であるという。
つまり、その人が「若い」か否かは、常に周囲と比較して相対的に決まるものであって、ある年齢から若い、ある年齢から若くないと一概に決められるものではない。
当たり前のことだと思われるかも知れないが、身を置くコミュニティが限定されていると、意外と忘れがちな事実である。
年齢層の異なるコミュニティに入れば、自分の若さに対する評価は180°変わる可能性があるということを、我々は常に自覚していなければならないと思う。
まあ、単に僕がたかが20歳そこそこで変に老人ぶる大学生を嫌っているだけかも知れないが。
ガチねむ
最近、酒を飲むと翌日にクソほど眠くなることに気付いた。
僕はもともとあまり酒に強くない体質である。大学生の時、スミノフアイス一本で吐いたこともあった。初代ポケモンで言ったらポッポくらいの弱さである。ルビサファだとスバメ。
そんなこともあって、アルコールを摂取した時の体への影響がすごい。ほんの少しの量でも血圧が上がり、酒の席では睡魔に襲われ、そのくせベッドに入ると眠りが浅くなる。結果として睡眠時間が十分に取れず、翌日クソほど眠くなるのだ。
僕は基本的に常に眠い人間だが、昨日なんかようやくそのことがわかってきたから、二次会まで行きながらビール2杯でとどめたというのに、今はもうガチねむである。ガチねむ。誰か早くベッドを持ってきてくれ。早く。救急隊員がガラガラ引いてくるやつでいい。白くて硬そうなやつ。もはやアレの上でも秒で入眠できる自信がある。頼む。ていうか119電話していい?スマホは便利だ。
というわけで、今日はわずかな乗車時間も立ちながらの仮眠に費やすべく、しょうもない文書はこの辺にしておこう。
会社とは
会社とはなんだろうか。
会社というのは、一人でできないような大きなことをたくさんの人が協力し合って達成し、お金を稼ぐものだと理解している。
一人でもお金を稼ぐことはできるのだが、色々なことをやろうとするとどうしても人手がたくさんいるのと、一般的に規模を大きくすると大きくしただけ儲かるので、会社というものが存在しているのだと思う。
さて、たくさんの人がいる中で、成果を出し、お金に結び付けるためには、周囲の人との協力が欠かせない。
そう考えると、会社で働くということはすなわちコミュニケーションであり、人付き合いである。
ただしそれらのコミュニケーションや人付き合いは、必ずしも強制的に参加させられる飲み会ではないし、行きたくない人を無理やり連れて行く社員旅行でもない。
とは言え、働く上で相互理解は非常に重要なことであって、プライベートでの交流は、会社でのコミュニケーションからさらに一歩、二歩踏み込んだ付き合いができるものだというのもまた事実である。
そう考えると、飲み会を頑なに全て断るような人間は、ゆとり世代がどうとかはあまり関係なくて、いわゆる「会社」で働くことがあまり向いていない人なのかも知れない。
幸いにして僕は良い先輩方に恵まれ、今度の社員旅行を大変楽しみにしている。
僕はまずここで、人付き合いを学ぼう。
そもそも非表示にしないのかな
今日は、「iPhoneの通知問題」について論じたい。
iPhoneのアプリは、何か通知が来るとホーム画面のアイコン右上に赤丸で通知の数が表示される仕様になっている。メールなら「新着メールがありますよ」だし、ゲームなら「アイテムが手に入りました」だったりする。
この通知を、ものすごい数溜めている人がいるだろう。メール500件とか、ライン1万件とか。彼らは一体どういう心境なのだろうか。
僕に関して言えば、何だかんだ几帳面なところがあるから、ホーム画面に通知が来ると逐一チェックして消している。
また僕の場合、会社で発生したTODOをメールでスマホに送って管理していたりもするから、数千件、数百件通知があると、通知が増えたかどうかわからず、TODOの存在に気付くことができないだろう。
それに、大切な人から大切な連絡が来ていたらどうするのだ。いつまで経っても未読スルーだったら、百年の恋も冷めかねないではないか。
…まあ、機能の話はいいとしよう。こちらがどんなに機能の有用性を説明しても、彼らが必要としていないなら無意味だからだ。
一番言いたいのは、単純に気持ち悪くないのかということである。
ていうか、そもそも何なのだ。内訳は。なぜそんなにえげつない数のラインが溜まるのか。彼氏が死ぬほど重いのか。それとも出会いのプロなのか。キャバ狂いなのか。
まあ、来ないよりはましか。
こんなに爽やかな朝だ。細かいことは気にしないで、深呼吸でもしよう。
雨が降ると電車が混む
今日は首都圏が大雨に見舞われており、各線で遅れや運休が出ているようだ。
僕が乗っている路線も例に漏れず影響を受け、今日はいつもの2割増しくらいで混んでいる印象である。
雨が降ると、電車が混むのだ。
しかし、冷静になって考えてみると、なぜそうなるのだろうか。
遅れや運休が発生すると電車が混むというのは、まあわかる。電車の密度が高くなったり、本数が減ったりすると、乗客が特定の電車に集中するから混雑するのだろう。
しかし、なぜ雨が降ると電車に遅れや運休が発生するのだろうか。明確に理由を答えられる人間は、実はそれほど多くないのではないだろうか。
「雨が降ると電車が混む」という言葉の響きには、「風が吹くと桶屋が儲かる」のようなことわざ的響きが感じられる。
無理やり理由を考えてみよう。
まず、雨が降ると、小学生が公園で遊ばなくなる。びしょ濡れになりながら鬼ごっこやかくれんぼをするのがあまり楽しいものではないということは、我々大人にも容易に想像ができる。
小学生が公園で遊ばないとなると、遊びはもっぱらおうちでゲームだろう。最近だとPSVRとか、switchとかが流行りなのだろうか。とにかく、外に出ないで遊ぶばかりだ。そうなると、ゲームをしながらでも美味しく食べられるお菓子が飛ぶように売れる。そうなると、お菓子メーカーが儲かる。
お菓子メーカーが儲かると、設備投資にさらにお金をかけられるようになる。お菓子の品質を高め、生産能力を上げるだろう。
……ここまでで、絶対におかしいことに気付いた。雨が降ってから電車が混むまでのフローが煩雑過ぎるし、タイムラグがヤバい。5年はかかりそうだ。
「雨が降ると電車が混む」の解明は、また後日リベンジするとしよう。